趣味に生きた御曹司
1907年(明治40)の6月。イタリア・トリノを出発した真新しいフィアット車は、国境を越えてフランスに入り、アルプス山脈南端のモン・スニ峠のワインディングロードを走りぬけた。やがてクルマは、サヴォア県ブールジェ湖畔の名高い温泉保養地、エクス・レ・バンを通過し、フランスを横断した。そしてドーバー海峡をわたり、英国のケンブリッジまでひたすら走った。
運転席でステアリングを操るのは、若き大倉喜七郎(当時の名は喜七、31歳のときに改名)。渋沢栄一の僚友で大倉財閥の創始者である大倉喜八郎、その跡継ぎである。25歳のこのときはケンブリッジ大学のトリニティカレッジに留学中(ランクは自費生)1)で、勉学もそこそこにボートレースや自動車レース、乗馬に興じる毎日を送っていた。
トリノで購入したクルマは1902年に開発されたフィアットの本格的レース仕様モデル「シルバーフライヤー」で、120馬力という当時としては途方もないパワーを生むエンジンを搭載していた2)。値段は当時の邦貨にして1万5000円。現価換算すると少なく見積もっても2000万円以上、換算基準によっては1億円近くにもなる”スーパーカー”である3)。
購入の目的は、世界初の常設カーレース場となったブルックランズ(イングランド・サリー州)で翌7月6日に開催されるモンタギュー杯国際レース(総走行距離36マイル)に出場すること。そのために住んでいるケンブリッジからわざわざトリノのフィアット本社に出向いて、この最新鋭のクルマを受領したのだった。
破格のハイカラ跡継ぎ
日本ではじめて自動車が走行したのは1898年(明治31)1月ごろ。フランス人技師が日本に持ちこんだパナール・ルバッソール社製のガソリン自動車(このころまだ蒸気自動車も走っていた)だったとされている4)。それからわずか9年後に最新のレースカーを買い入れてイタリア~フランス~英国を疾駆するのだから、この日本人青年のハイカラ度は半端でない。
喜七郎の留学費用や遊興費は、当然のことながら父親の大倉喜八郎の財布からでた。ときには、父親が明治初期に日本企業初の海外拠点として設立した大倉組商会ロンドン支店からでることもあっただろう。典型的な御曹司、2代目のお坊ちゃんというわけである。
ロンドン支店はこのとき、のちに大倉組商会大番頭となり喜七郎の後見役ともなる門野重九郎が支店長を務めていた。喜七郎は大倉財閥を継いでからもずっと門野には頭があがらなかったらしい。父喜八郎は、鰹節問屋の丁稚奉公から苦労して立身出世して大倉財閥を築いた人物だが、その嗣子である喜七郎は親の寵愛を受けて自由闊達に育ち、カネで苦労したことなどまったくなかった。
