SNS時代…「言いたいことが言える」と「同調圧力的な投稿」の違い
近年、「同調圧力」というワードを一般化させたのは、やはりSNSでしょう。
SNSの登場は、前々からあった職場等での長時間労働などのハラスメントを浮き彫りにし、それらが人の命を脅(おびや)かす、といったようなことを明白にするのに役立ちました。
しかし、今度は、ハラスメントを炙り出す働きをしていたSNSの中で、「あの人は間違っている!」という炎上や「〇〇警察」などの同調圧力のムードがはっきりと広がるようになります。
これまで頭で思っていても面と向かっては口に出されなかった同調圧力的な言葉が、SNSという対面しない場では言えるようになってしまったのです。
これは、「孤立させられる恐怖がないから、SNSでは同調圧力に屈せずに好きなことを言える」と、とれるかもしれません。
でも、多くの場合、SNS上で実際になされていることはどうでしょうか。
そこにあるものは、「我慢していた言いたいことが言えるようになった」ではなく、「世の中的によいことだと信じられているもの(慣習やルール等)を、そこに適応できない人に押しつけるようになった」ではないでしょうか。
つまり、「同調圧力に屈しないようになれた」のではなく、むしろ多数派の考えを仕入れて同調圧力に流され、従った。そのうえで、孤立する心配のなくなった自分が「同調圧力を発生させる側」になり、ボロを出して突如少数派に転落したような人を攻撃しているだけ、というわけです。
そして、このSNS発の同調圧力に代表される厄介なところは、そこに加わった人がボロを出した一人を傷つけても、「みんなが思っていることを自分が代弁しているだけ」「自分は間違った人を正しているだけ」「悪いことをやった人が罰を受けただけ」といった認識になりがちなことでしょう。
SNSでは多数派・孤立しないことを背景に、正義を押し売りして公然と人を罰するところまでいってしまったのです。