なぜか権威に依存する社会
■受賞を褒めてくれない先輩 「賞」「肩書」「看板」の意味
私が記者になりたてのころ、取材のイロハを学んだのは金融ジャーナリストの浪川攻さんでした。浪川さんは年齢がひと回り上にもかかわらず謙虚でした。未熟な私を一人前扱いしました。今から思うと、自分で考えるよう私に仕向けていました。
私が共同通信の山口支局で記者をしていた時、文化財と科学技術の分野でそれぞれ独自ネタをスクープ記事にし、会社から賞を2度もらいました。記者の基本を教えてくれた浪川さんに報告したら喜んでくれるだろうと思い、浪川さんにハガキで報告しました。
しかし、彼から返事がありません。その後も独自ネタをスクープ記事にし、再び会社から賞をもらいました。その受賞も浪川さんに報告しましたが、反応はもらえませんでした。
やがて、共同通信の東京本社に転勤となり、浪川さんと久しぶりに再会した時のことです。
「受賞を何度も報告したのに、どうして返事をくれなかったんですか」
私は突っかかりました。すると、浪川さんは一言。
「賞自体にどんな意味があるんだ。その記事は誰かの、何かの役に立ったのか」
私ははっとしました。確かに、私たち記者の仕事の意味は、その記事が社会の役に立ったのかどうか、誰かを救うことができたのかどうか、それだけです。会社の方を見て仕事をしていなかったか。見るべき先は読者と社会と現場の人間です。浪川さんは、私にそう伝えたかったのでしょう。
それから、いろいろ考えるようになりました。新聞協会賞にどんな意味があるのか。直木賞、芥川賞にはどんな価値があるのか。ノーベル賞は、勲章は……。記者として私の自考が本格的に始まりました。それ以来、私は「賞」という“看板”に惑わされないようになりました。
世の中にはいろんな賞があふれています。賞をもらった人やモノの方が本当に優れているのか。むしろ賞をもらえなかった人の方に、本当の価値があるのではないか。その賞はどんな商業ベースに乗っているのか。大きな値が付くピカソの絵と、自分の愛おしい家族が描いた絵を比べたら、どちらに、どんな価値があるのか……。
そして、新型コロナウイルスと必死に闘う医療従事者、介護従事者。密なスーパーでレジを懸命に打つ従業員。見返りなど求めず、必死に子どもに向き合う教師。人々が寝静まった深夜、ハンマーを抱え線路を黙々と点検、整備する鉄道会社の作業員……。世の中は、賞や肩書や看板など気にも留めない人たちが起こす小さな“奇跡”に支えられています。そうした大勢の人たちが「不可能」を「可能」にしてくれているからこそ、社会がきちんと回っているのです。
賞を褒めてくれなかった浪川さんのおかげで、こうした思いを抱くようになりました。