日本の選挙報道の「公平、公正、バランス」との違い
■情報を「受け手」が自己責任で見極める時代に転換へ
2016年11月のアメリカ大統領選挙は激戦の末、共和党のトランプ氏が勝利しました。
その年の選挙前、ニューヨーク・タイムズは早々に、民主党のヒラリー・クリントン氏を支持すると表明しました。現地で大統領選を取材していた私は、1面で大きな文字で「クリントン支持」を伝える紙面を手に、「日本とまったく違うな」と感じていました。日本では新聞やテレビなど一般的な大手メディアが特定の候補を支持することはありません。日本の場合、政治報道の公平、公正、バランスを考慮すると、そうなります。
しかし、アメリカの読者、視聴者には、日本流のバランスではなく、メディア個々の独自の主張を期待する傾向があると言われます。アメリカ人は、各メディアの異なる主張を踏まえて、議論し、自分の頭で考え、自分の頭で投票する候補を選ぶというのです。メディアは、読者、視聴者、国民に判断を委ね、その判断を尊重し、多様な選択肢を提供するという特徴があります。日本のやり方とは違います。
もうひとつ。ニューヨーク・タイムズはクリントン氏を支持していたのに、選挙期間中、クリントン氏のメール問題を追及する記事を遠慮なく報じていました。クリントン氏が国務長官在任中、公務に私的な電子メールアカウントを使っていた行為が不透明だと批判された問題です。支持は支持、疑惑追及は疑惑追及。ニューヨーク・タイムズの姿勢は大統領選の投票日まで変わりませんでした。
候補として支持していても、投票の直前まで不正疑惑の材料を提供し、判断を読者、有権者に委ねようとする姿勢。これがニューヨーク・タイムズの「バランス」なのでしょう。
日本のメディアは、例えば、選挙期間中、候補者の不正などをめぐる報道については、より厳密な正確性を期します。選挙報道の公平、公正、バランスを踏まえ、中途半端な報道が投票行動にいたずらな影響を与えないようにする考え方です。この点にも少し違いがあります。
どちらがベターなのか一概に言えません。いずれにせよ、「受け手」が自己責任で情報を見極め、判断するやり方は、これから重要になってくるのではないでしょうか。情報の「出し手」と「受け手」が双方で監視し合い、尊重し合い、成長し合えるやり方のほうが、民主社会の質を高めることにつながると考えます。
新聞、テレビ、雑誌などメディアの情報に完全に依存したり、インターネットの情報をそのまま鵜呑みにしたりするやり方には限界があります。「受け手」が自己責任で情報を見極めるには、自考が不可欠になります。受け手の自己責任論は、メディアがジャーナリズムの使命を放棄してもいいという意味ではまったくありません。
むしろ逆で、情報の受け手と、出し手のメディアが、お互いに情報の質を高め、確かな情報をふるいにかけて、社会の利益にしようという発想です。
岡田 豊
ジャーナリスト
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