最近の研究で“頼家暗君論”に異を唱える説も
しかし最近の研究では、“頼家暗君論”に異を唱える説が数多く出ています。女性の一件はともかく、境相論や守護職などの件はどうだったのでしょうか?
実際の頼家は、境相論が起こった現地に部下を派遣していました。土地の権利について、しっかり調査をさせた上で裁決したのです。
守護職の件についても、解任された御家人にはそれに値する罪科があったという指摘があります。所領の再配分も、御家人のあいだで広がっていた“格差是正”対策という見方もできるでしょう。
また、蹴鞠も単なる遊びではなく、当時は皇族や公家に欠かせない大事なたしなみでした。その足芸を身につけなければ、貴人として評価されなかったのです。
ただ、頼家にはまだ先代のようなカリスマ性がありません。不満を抱く御家人を押さえつけるだけの「圧」も、若いゆえに弱かったのです。
こうしたことから、次のような声が囁ささやかれるのも当然でしょう。
〈頼家を暗君にするため、『吾妻鏡』の編者が話をねじ曲げたんじゃないの?〉
真偽はともかく、繰り返しになりますが、『吾妻鏡』は北条氏の視点による史書です。頼家と比企氏は北条氏にとって、排除すべき勢力でした。
武士に弓馬の芸は欠かせません。「創業社長」頼朝は、2代目候補・頼家の教育にも心血を注いでいました。
頼朝が頼家の家庭教師(師範)に選んだのは、下河辺行平でした。
ムカデ退治の伝説で知られる「弓取り名人」藤原秀郷の末裔。下河辺は、源平合戦・奥州征伐でも戦功を挙げています。
この下河辺から英才教育を受けた頼家は、父をしのぐ弓と乗馬の術を習得していきました。
■合議制の3つの誤解
鎌倉幕府「創業者」頼朝の死からわずか3か月後。
1199年4月、13人の宿老による合議制がスタートします。
最大の職務は、2代目「鎌倉殿」頼家への訴訟取次でした。つまり、頼家が独断で訴訟を裁決しないようにすることが、宿老たちの最大の職務だったのです。また、頼家の命令を、問題を起こさず執行するというだけの職務もありました。したがって、13人のメンバーすべてが政治判断を行い、政務を担ったというわけではありません。
合議制への誤解は、もうひとつあります。
「合議」という名称から、全員が一堂に会して議論したと思われがちです。しかし、『吾妻鏡』をはじめとする諸文献に、そのような記述はありません。13人がそれぞれの立場・役割に応じて複数人で会談し、その結果を頼家に取り次ぐというのが実態でした。
会社にたとえると、ある取引の契約の際、営業担当役員が法務担当役員とだけ打ち合わせ(合議)をし、社長(将軍)に決裁をもらうようなものだったのです。
さらにもうひとつ加えると、13人全員が存命していたのは、合議制スタートから9か月ほどに過ぎません。
あとで詳しく説明しますが、合議制スタートからまもなく、役員たち(宿老)のあいだに亀裂が生じてしまいます。
翌1200年1月、役員みんなから総スカンを食らった梶原景時が追討され13人合議制は早くも一角を失ったのです。また、追討されなくとも、寿命間近の超高齢役員も少なからずいました。
大迫 秀樹
編集 執筆業
↓コチラも読まれています
「鎌倉殿の13人」梶原景時はなぜ告げ口で身を滅ぼしたのか?(中村獅童)
「鎌倉殿の13人」2代目頼家の最期は「あまりに壮絶な裏切り」(金子大地)
落馬か?病気か?暗殺か…?鎌倉幕府を作った「源頼朝の死因」(大泉洋)