娘を天皇に嫁がせ外戚の地位を狙う
■大姫入内プロジェクトと誤算
上洛の目的には、次期「鎌倉殿」のお披露目もありました。
頼朝は、まだ14歳だった長男・頼家を後鳥羽天皇に引き合わせたのです。「鎌倉殿」2代目が頼家になることは、鎌倉の御家人はみな知るところでしたが、これによって、朝廷内でも周知の事実となったのでした。
最後に、もうひとつ。これがいちばんの目的でした。
かつて藤原一族や平清盛が成し遂げたことを、頼朝も目論んでいたのです。それは天皇の外戚の地位を得ること、すなわち娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を天皇の地位につけようとしたのでした。頼朝は長女の大姫を後鳥羽天皇の后にしようと考えていたのです。
ただし、この大姫入内プロジェクトを立案したのは北条政子と時政だったという説もあります。この親子は常々、北条家の家格を上げることに執心していました。大姫が天皇の子を産むと、北条家は安泰です。
では、頼朝の真意はどこにあったのでしょう?
〈生まれた子を鎌倉に連れ帰り、東国で新しい王権を築きたかったのかも?〉
〈清盛を超える存在になりたかったんだ。朝廷を完全に掌握するためだよ!〉
〈朝廷に仕えるのが武士の務め。朝廷とこじれないよう、親戚関係を築きたかっただけじゃない?〉
……など、諸説あります。
真意はともかく、頼朝がまず接近したのは、丹後局でした。丹後局はかつて後白河法皇の寵愛を受けた経緯から、後鳥羽天皇の事実上の後見人になっていました。
しかし、丹後局の背後には、九条兼実のライバル・源通親がいました。通親は源の姓がついていますが、頼朝と近しい関係だったわけではありません。平清盛の庇護を受け、清盛亡きあとは、法皇に巧みに取り入っていたのです。手練の策士といってよいでしょう。
通親は頼朝の狙いを見すかしていました。頼朝からの大量の贈り物を受け取りながら、大姫と後鳥羽天皇の縁談話をいっこうに進めなかったのです。
頼朝は鎌倉に戻ってからも、天皇との縁談話に執着しました。
しかし通親は、頼朝と親密な九条兼実を失脚させ、兼実の弟・慈円も天台座主から解任しました。さらに自分の娘を後鳥羽天皇に嫁がせたのです。娘と天皇とのあいだに産まれた子は、のちに土御門天皇となり、通親は外戚として「王法」をわがものにしました。
朝廷の裏工作では、通親のほうが一枚も二枚も上手だったのです。
頼朝は信頼関係を築いていた九条兼実を失い、天皇の外戚の地位も横取りされてしまいました。心のうちで舌打ちしたことでしょう。と同時に、公家のしたたかさと朝廷を懐柔することの困難さをひしひしと痛感させられたのでした。
上洛から2年後の1197年、悲運の大姫は若くして亡くなりました。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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