イラストレーション=メイ ボランチ

頼朝が鎌倉を拠点にしたのは、「源氏ゆかりの地」であることが最大の理由だといわれます。南は海に面し、他の三方は山に囲まれているので、鎌倉は「自然の要塞都市」というわけです。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

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「幕府」は戦場で大将が構える陣地のこと

■都市造営のはじまり

 

鎌倉の本格的な都市造営が始まったのは、1180年です。

 

頼朝は政所を設置したあと、北西部の六浦路沿いに「大倉御所」を建てました。頼朝の住まいと執務を兼ねた館です。ここが鎌倉造営の拠点となりました。

 

主要な御家人たちも、この「大倉御所」の周辺に邸宅を構えました。畠山邸と八田邸が南門、比企邸が東門、三浦邸が西門のそれぞれ近く、という配置でした。

 

また南には、父・義朝の菩提を弔とむらう勝長寿院を建て、鶴岡八幡宮も御所の西隣りに移しました。勝長寿院は大御堂(南御堂)と呼ばれ、頼朝亡きあと、北条政権下でも厚く保護されましたが、残念ながら戦国時代に廃寺となりました。

 

鶴岡八幡宮は「源氏の氏神」を祀る社でしたが、頼朝が東国支配者となったことに伴い、「東国武士の守護神」「武運の神」へとグレードアップしました。1187年には、馬上から的に向かって鏑矢を放つ流鏑馬の奉納が始まりました。小笠原流の流鏑馬は伝統行事として、今日まで伝えられています。

 

由比ヶ浜と八幡宮のあいだは、若宮大路で結ばれました。若宮大路は京都の朱雀大路にならった幅33mの大通りで、政子の安産祈願を込めて造られました。建造にあたっては、頼朝みずから陣頭指揮を執り、北条時政・義時父子ら有力御家人たちも汗を流したといいます。

 

ただ、若宮大路は式典・儀礼・神事用の通りで一般の交通路として使われたものではなく、鎌倉幕府の権威の象徴として機能しました。

 

◆「鎌倉幕府」ってナニ?
鎌倉幕府の成立年は、諸説あります。本書でも、1180年、1185年説などを紹介してきました。では、いつが本当の始まりなのか、頼朝殿ご本人に尋ねてみましょうか。
「いつ鎌倉幕府をつくったのですか?」「……ナニ、それ?」
と、きょとんとされるだけでしょう。
元は、戦場で大将が構える陣地のことを「幕府」といいました。まわりに「幕」を張って、「府」(本営の場)としたことが語源です。
鎌倉幕府が政権を表す用語として定着したのは、明治時代以降のこと。頼朝も北条氏も、「鎌倉幕府」なんて言葉は知らず、使いませんでした。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

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※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

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