義経は最後まで頼朝の心が読めなかった
■「九郎判官」の哀しきわび状
「判官」とは、検非違使の尉という官職のことをいいます。
義経は、義朝の第九子(諸説あり)だったので、九郎と呼ばれました。その九郎が検非違使の職に就いたため、「九郎判官」は義経の代名詞になっています。これが「判官贔屓」の由来となったことは、広く知られるところです。
国語辞典『広辞苑』も「源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓」と認めています。
ただ、平氏を滅ぼした義経は、このとき“弱者”ではありませんでした。しかし、頼朝はまたもや自分を通さず、朝廷から官職を受けた“にわか強者”に大激怒し、義経が鎌倉の地に入ることを許しませんでした。
義経だけではありません。源平合戦で勲功を挙げた多くの御家人が朝廷から官職をたまわり、それを喜々として受けていました。頼朝は、朝廷の傘に下り、犬のように頭を垂れる御家人たちを一人ひとり呼び出し、激しく罵倒しました。
〈ネズミみたいな眼をしやがって。任官なんか、とんでもないわ!〉
〈声はしわがれ、後頭部もやばいぞ!〉
〈ホラばっかり吹きやがって。いくさは負けてばっかりのくせに!〉
都育ちのお坊ちゃまもすっかり東国の空気になじんだかのような罵詈雑言の対象には、のちに奥州合戦で活躍し、「13人」のメンバーとなる八田知家もいました。戦場からの帰路の途中、右衛門尉という官位をたまわったため、頼朝から〈怠け馬のくせに、道草を食いやがって!〉と、痛罵を浴びせられたのです。
ちょっと大人げないですが、頼朝の器量の小ささゆえではありません。頼朝が暴君だったわけでもありません。
朝廷に御家人の任命権を認めることは、「鎌倉殿」の存在意義にかかわります。自分を通さず、御家人と朝廷が結びつくことは、頼朝にとって許しがたいことだったのでした。
義経もここに至って、恭順の意を示しました。鎌倉の手前、七里ヶ浜に近い腰越から頼朝にわび状「腰越状」を送ったのです。
しかし、謝罪だけに止めていればよいものを、〈源氏の名誉と思い、検非違使を受諾したんだ。アニキぃ、わかってくれよ!〉という言い訳もしたためられていたのでした。
兄の心、弟知らず。
やはり、義経は頼朝の本意を理解できていなかったのです。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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