家主側にはなす術なし…強制執行手続きへ
紫陽花が雨で色濃くなる頃、井上さんの事件は明け渡しの判決が言い渡され、強制執行手続きが行われました。
部屋の中には数足の靴。古い小さなテレビ。薄っぺらい布団が無造作に敷かれ、その上には春物の掛布団。やはり井上さんは、去年の夏に入る前にいなくなってしまったのでしょう。その他には数枚の衣服と、コンロの上のヤカンくらいしか残っていませんでした。
生活している中で、忽然と姿を消したというよりは、やはり必要な物だけ持って、ご自身の意思で出て行ったというような印象でした。
「一言さ、出て行くから部屋の物は処分してくださいって言ってくれれば、こっちで処分するのに。そうしたら要らぬ費用もかからないのにね。長年住んでくれていたから文句は言いたくないけれど、どうして黙って出て行ったりするのかな。たった一言で済むことなのに。僕は、隣の建物にいるのに」
家主の声は、切実でした。
賃貸借契約が継続している以上、仮に家賃を滞納されていたとしても、家主側は勝手に室内に入ることはできません。まして賃借人側の荷物を処分することもできません。賃貸借を終了します、部屋を明け渡しますと一言言ってくれれば、家主は余分な費用をかけずに済むのです。
荷物を捨てるのが面倒なら、「処分して」と言えば(もしくは置手紙でもあれば)、家主側は処分できるのです。たった一言さえあれば……。それがなければ、訴訟手続きで解決するしか、家主側にはなす術はありません。
