「日比谷高校→東京大学」エリートコースの崩壊
都立高校の、東京大学をはじめとする大学進学成績が伸びているという。これまで進学指導においては独自のカリキュラムを組む一部の私立高校が中学受験から優秀な生徒を集め、徹底した受験指導を行なうため、都立高校は受験には不利といわれてきた。
ところが最近の都立高校は、学校による特色を打ち出すことを東京都が容認し、進学指導重点校(日比谷高校など7校)、進学指導特別推進校(小山台高校など13校)、進学指導推進校(三田高校など13校)を置き、学校ごとに特別に進学指導を行なうようになってきている。こうした地道な取り組みが進学成績の向上につながり、一部の都立高校の人気向上につながったようだ。
公立高校の役割は本来、それぞれの地域の生徒を集め、高度な中等教育を行なうための学校であった。そして現在のように高度に交通網が整備されていなかった頃は、より地域性の高い存在であった。
都立高校は戦前の旧制府立中学や市立中学校、高等女学校などが母体となり、これに新制高校などが加わったもので、現在では186校(平成31年度)を数える。
もともと都立高校のトップと言えば、日比谷高校だ。日比谷高校は旧制府立一中で戦前から旧制第一高等学校に多数の生徒を送り出し、第一高等学校から東京帝国大学に進学するというのが日本のエリートコースといわれた。
これが戦後、学校制度が変わり、旧制高校が廃止されると新制の日比谷高校から直接、東京大学に進学する道が開かれた。そして「番町小学校→麴町中学→日比谷高校→東京大学」という新たなエリートコースが生まれたのだった。
だが戦後の高度成長が始まると、続々と地方から大量の人々が東京を中心とする首都圏に流入、その多くがサラリーマンとなって家族を持ち、定住するようになった。人口が増加するにつれて都心部の地価が上がり、都心にあった借家が次々とオフィスビルなどに切り替わるようになり、住宅は郊外部へと広がっていった。
この動きは昭和30年代後半くらいから顕著になるが、人口の郊外への拡大の波に乗ったのが、郊外にあった都立高校である。たとえば中央線沿線は東京の人口増加の受け皿となっていったが、新宿区の戸山高校、杉並区の西高校、立川市の立川高校などの大学進学成績が急伸していった。これらの学校は日比谷高校と並んで戦前の旧制府立中学、いわゆるナンバースクールで、東京都心に通うサラリーマンの子弟の受け皿として徐々に力をつけていったのだ。
東京大学への進学成績でも戸山高校や西高校も100名以上の合格者を叩き出し、トップの日比谷高校に肉薄した。