人口の都心回帰で進学校の大学合格実績に異変!
郊外にサラリーマンの受け皿としての住宅を建設し、そこにサラリーマン家庭が居を構え、とりわけ大企業社員や官僚などが好んで住んだ山の手の中央線沿線で育った子弟が地元の進学校に通う構図が出来上がっていく。
こうした都立高校の「進学校化」は当時受験戦争を煽るものとメディアを中心に非難され、東京都の小尾教育長は昭和44年に新しい入学者選抜方式である学校群制度を導入する。
この学校群制度は「富士山から八ヶ岳へ」のスローガンを掲げ、都立高校に学区制を設けるのと同時に、学区内の都立高校を2校から3校ごとに学校群に編成した。受験生は希望する学校群を受験し、群ごとに合格者を決定されるというものだった。
その結果、日比谷高校は、進学できる学区が千代田区、港区、品川区、大田区に限られたうえに九段高校、三田高校と同じ一つの学校群の中で選抜され、合格者はこの三校に平等に振り分けられたことから人気が分散してしまい、進学成績を落としていった。
学校群制度の導入によって、日比谷高校を頂点とするピラミッドは崩壊したものの、それぞれの学区内の中心となる進学校の位置づけは明確になった。特に2校編成の学校群となった22群の戸山高校や32群の西高校、72群の立川高校は日比谷高校の進学成績を上回るようになり、さらに中央線の八王子駅のある八王子市では八王子東高校が多摩地区の新たなエリート高校として登場することになる。
人口の郊外部への拡大は、これまで中央区や台東区、江東区などに住んでいた住民たちが都市化の流れに伴って郊外部へ脱出する。その結果、下町の名門校であった上野高校や白鷗高校、両国高校、墨田川高校などが支持基盤を失い、代わって登場し、どこからでも自由に生徒を集めることができる私立高校に優秀な生徒を奪われ、進学成績を落としていった。
こうした状況を受けて東京都では石原慎太郎知事の時代、知事が「高校生なんだから東京都内の好きな都立高校に電車やバスで通えばいいじゃないか」と言って都立高校の入学者選抜方式を大きく変え、現在は都内どこからでも「単独志願」で学校が選べるようになった。また小石川中等教育学校(旧都立小石川高校)のような中高一貫校の指定が行なわれるようにもなった。
そうした改革の結果、現在の進学成績の向上につながるのだが、現在の各高校の進学成績を覗くと興味深い事実が浮かび上がる。
たとえば2019年春の各都立高校の東京大学の合格者数を見てみよう。一時は東京大学合格者数が一桁台に落ち込んでいた日比谷高校の47名を筆頭に西高校1名、国立高校16名が続くが、注目すべきは都市部の学校で一時は進学成績が低下していた青山高校が10名、小石川中等教育学校も16名の合格者を出していることだ。いっぽう郊外人口の増加の流れに乗って進学成績を伸ばしていった立川高校は、2名に落ち込んでいる。
この現象から窺えることは、人口の都心回帰の動きが郊外部の高校の進学成績を落とし、都心部の高校に優秀な生徒が集まり始めているということだ。