都市に集中で労働生産性を飛躍的に高めてきた
分散型ネットワーク社会の到来
今回のコロナ禍は、日本社会に大きな惨禍をもたらし、20年8月現在でも終息するどころか、さらなる感染拡大が懸念されています。人々は感染を恐れ、家に引き籠もり、一部の住民は監視警察となって、自粛を遵守しない人々の非難を始めました。社会は不穏な空気に覆われ、経済は大きなダメージを受けつつあります。そして命を守るのか経済を優先するのか、などといった頓珍漢な議論までが巻き起こり、社会を分断しかねない勢いです。
コロナウイルス自体は、感染症の一つです。これまでも人類をピンチに追い込んだ感染症は数知れず発生してきましたが、いずれも人類の手によって克服されてきました。そうした意味で、今回のコロナウイルスについても、私は人類の叡智によって必ず終息の方向に向かうであろうと信じています。
今回のコロナ禍でむしろ注目されるのが、中国の武漢市で発生したと思われるコロナウイルスが、世界中に瞬く間に拡散したという事実です。これまでもSARSやMERSといった感染症、古くはスペイン風邪、香港風邪といった感染症が猛威を振るってきましたが、今回の感染拡大は驚異的なものでした。その原因として今回クローズアップされたのが、世界がこれまでとは比較にならないほど「密」になっているということでした。世界中の人、もの、カネが瞬時に移動する社会にあって、感染症の脅威は「密」によって、これまで以上に恐ろしいものとなったことが証明されたのでした。
いっぽうで都市のあり方にもコロナ禍は大きな課題を提示しました。資本主義の世の中が進展する中で、人々は都市に集中して働くことによって労働生産性を飛躍的に高めてきました。人と人が触れ合う機会は激増し、こうした人々の動きを情報通信が加速させてきました。コロナ禍は密になった都市で、あたかも瞬時に伝送されるかのように広まっていったのです。
人類にとって、これまで当然のように考えてきた「集中」「効率」の概念をコロナ禍は一気に覆したことになりました。しかし、これまで非効率と思われていた「分散」した社会構造で働くことが、意外にも現在の情報通信端末やソフトウェアで十分可能であることを証明する機会を提供したことになりました。世界中の人々が同時期に「分散」しても大丈夫、いや分散することの快適性に気づいたのが、今回のコロナ禍がもたらした副産物だったとも言えそうです。