身分が低い出自でも、絶妙な利害調整で部下を従わせる
その秀吉が天下を統一してから行った組織構築をみていきましょう。秀吉は出自が農民でしたから、その威光で配下を従わせることはできませんでした。ですから、失敗に対し寛大な措置をとったり、前述のようなサプライズを演出したりと、部下を服従させるために試行錯誤を重ねたのです。そのなかで、最も効果があったからこそ繰り返し用いた手段が、莫大な褒美を取らせることでした。
信長の後継争いで柴田勝家を破った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いは、秀吉が天下統一に打って出た最初の戦でした。その戦いで活躍した武将が賤ケ岳の七本槍(実際は7人ではありません)と呼ばれ、その後の豊臣政権の中枢を担いました。
彼らは、この戦の結果のみで、それぞれ数千石の禄を与えられています。そのなかにはまだ20代そこそこで野心に燃えていた加藤清正や福島正則らがいました。彼らは一夜にして大名となったのです。身を震わせて喜んだことは想像に難くありません。譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉は、初戦ということもあり、「これが私の子飼いの者たちだ」という喧伝のために大盤振る舞いをして忠誠を誓わせたのでした。
また、秀吉は感状を非常にまめに書きました。感状は戦での働きを称えるための文書で、戦国武将には非常に重要な意味を持ちました。家臣団が集まり軍議をするときの席順は、それまでにもらった感状の枚数で決まり、軍議は上座の者から発言するしきたりがあったからです。上座にいれば、「次の戦では私が先陣を切る」と言い出すことができますから、自ずと手柄を立てやすくなるわけです。武士は感状をもらうために命懸けで戦ったことでしょう。
通常、この感状は右筆(ゆうひつ)という文書の作成を担当する専門の者が書きますが、秀吉は自ら感状をよく書いたと伝わっています。もらうだけでも非常にうれしい感状を、主君が何十枚も、ときには何百枚も自筆で書き、そして労を労いながら直接手渡す。秀吉の存在が大きくなるにつれて、そのこと自体の価値も高まっていきました。
「この主君のためなら命を捧げてでも戦う」と決意する者が次々と出てきたのかもしれません。秀吉はこのように人がなにで喜び従うかをかぎわけ、采配する力に非常に長けていました。この希少な能力を駆使し、勢力を拡大することで天下を取ったのです。
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