※画像はイメージです/PIXTA

豊臣秀吉といえば、貧しい農家の出でありながら天下統一を成し遂げた成功者というイメージがあります。一方で、莫大な権力を持っていたにもかかわらず、その栄光は一代で潰えてしまいます。本記事では、豊臣政権が一代で滅んだ理由から、カリスマ社長がいた組織が崩壊する理由をみていきます。

「戦国三英傑」のひとり、豊臣秀吉

豊臣秀吉は、織田信長、徳川家康と並ぶ「戦国三英傑」の1人です。1536年、尾張(現在の愛知県西部)に生まれました。農民の子ではありましたが、武士を志して放浪したあと、松下家に仕官します。秀吉はそれから2年後、今度は信長に仕えることになりました。1566年に美濃の斎藤龍興を討つべく「墨俣の一夜城」を築き信長の評価を確固たるものにすると、その後朝倉氏や浅井氏との戦で戦功を立て大名となり、羽柴姓を名乗るようになりました

 

以降も大いに活躍し、信長の天下布武の総仕上げである中国地方制圧の総大将に抜擢されます。姫路城を建て本拠とした秀吉は中国制圧においてもいかんなくその実力を発揮し、5年をかけ徐々に攻略していきました。

 

いよいよあとは毛利勢との決戦を残すのみとなったそのとき、本能寺の変で信長が横死したという報を受けます。直後、わずか1日で高松から姫路まで進軍したという有名な「中国大返し」を実行し、明智光秀を山崎の戦いで破ったことで信長の後継者の最有力候補となりました。その後、天下統一に乗り出し、一時対立した家康も臣従させます。そして1590年、最後の抵抗勢力であった北条氏を小田原で破り、天下人となりました

 

天下統一後は大陸への野心を燃やし、朝鮮出兵を行いますが、夢かなわぬうちに病に倒れます。最期を悟った秀吉は、家康に唯一の肉親であり跡継ぎである秀頼の後見を託し、この世を去りました。享年は62歳です。

恐怖で支配する「信長」、戦わずに従わせる「秀吉」

秀吉の有名なエピソードといえば、信長に重宝されるきっかけとなった草履の話が有名ですね。雪が深々と降る日に信長が草履を履くと、なぜか非常に温かかった。それは秀吉が気を利かせて懐で温めていたからだということを知った信長が秀吉をいたく気に入り、目をかけるようになったという話です。

 

秀吉の人物像として真っ先にイメージされるのは、この話に代表される、「人たらし」ではないでしょうか。恐怖によって人を支配しようとした信長に対し、秀吉は常に、いかに戦わずして従わせるかを考え、勢力を拡大していきました。

 

もともと農民の出だったこともあり、配下に親族がいないうえ、その低い身分ではただ武力で勝っても表面的な服従に留まってしまうことがわかっていたのかもしれません。どうすれば相手が心から服すかを考え、手を変え品を変えと苦心していたであろうエピソードがたくさんあります。

 

その最たる例が家康との1件です。なかなか臣従の意思を見せない家康に対し、秀吉は異父妹の朝日姫を嫁がせます。朝日姫は結婚していましたが、離婚させたのです。しかも、求められてもいないのに、実の母親も人質という名目で送り付けました。こうまでされては、さすがに家康も折れないわけにはいきません。

 

しかも、念には念を入れるため、いよいよ明日会見をするという日の前日に、弟の豊臣秀長の家に滞在中だった家康を、単身事前連絡なしで訪問したのです。そこで「信長様の筋目的にはあなたのほうが上であることは私も認めています。ただこの戦乱の世を収めるためにはあなたが私に協力をしてくださることが不可欠なのです」と頭を下げます。

 

家康を「名誉ある敗者の座」に無理やり押し込んでしまったのです。実質これが秀吉の天下統一の最後の決め手となりました。

 

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