雌雄を争ってともに滅びる結果
■信長の動き
戦国時代は領土の分捕り合戦である。敵対する国は平らげなければならない。義元は西へ動いた。その動きは、信長を討つためとする説と上洛説があり、後者では上洛する道筋にある信長の所領尾張が最初の標的となった。いずれにせよ、義元は信長を征討するべく西上したのである。
清須城を根城とする織田信長の支配下にあった知多半島の鳴海・大高両城(いずれも名古屋市)が今川の手に落ちたのは、1559(永禄2)年。桶狭間の戦いの前年のことだったが、信長も黙って手をこまねいてはいない。強烈な今川牽制策を講じた。
まず、鳴海城を取り囲むように3つの出城を築いた。丹下砦、善照寺砦、中嶋砦(いずれも名古屋市)である。善照寺砦は、寺を砦として利用したのではなく、寺の跡地を利用して新たに砦を築いたのだ。どの砦も敵の動きがわかる見晴らしのよい丘陵を選んでいる。
いくつもの砦を設けるのが信長の戦略の特徴の1つで、それらはバラバラに動くのではなく、数珠のように連携して動ける配置になっており、それらを総称して「連珠砦」といった。どこかの砦が攻められたら、「後詰」と呼ぶ救援に回ることが出来る配置だ。
続いて信長は、大高城の周辺に砦を2つ築く。城の北東約700メートルの丘陵に「鷲津砦」(東西25メートル、南北27メートル)、東南約800メートルの丘陵の先端に「丸根砦」(東西36メートル、南北28メートル)である。両砦を含め、上記の城塞は現在の名古屋市(緑区)にあった。
信長は、今川義元の軍勢の来襲を受けて、善照寺砦に陣取った。元康が兵糧入れに成功した大高城とは、目と鼻の先だ。
かくて、信長と元康は、1560(永禄3)年に1キロメートル以内の近距離で敵対することになったのである。両者が「清須同盟」と呼ばれる攻守同盟を結んで、「昨日の敵は今日の友」という関係になるのは、この2年後(1562〈永禄5〉年)、元康21歳、信長29歳のときの出来事になる。そのとき、信長が家康にいった次のような言葉が印象的である。
「われらが力を合わせれば、天下統一は難しいことではない。覚えておかねばならぬのは、平清盛と源義朝は、勅諚によって天下泰平になったにもかかわらず、雌雄を争って、どちらも滅びる結果を招いたということだ。のちの新田義貞と足利尊氏についても同様だ」
城島 明彦
作家
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