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「1番合戦」にこだわった家康の覚悟
■家康の覚悟
織田信長と徳川家康の雪辱戦ともいうべき「姉川の戦い」が決行される。家康は、どんな思いで「姉川の戦い」に臨んだのだろうか。
その話をする前に知っておきたいのは、家康に対する信長の接し方である。家康が援軍として龍ヶ鼻というところへ到着すると、信長は自ら出迎え、手を取って、早々の御加勢を感謝する旨を申し述べたという。かなり気を遣っていることがわかるが、信長はさらに、槍を家康に差し出して、こう告げている。
「この槍は、かの鎮西八郎為朝が持っていた業物だ。徳川殿は源氏の正統であるから進呈する」
家康は“感激しやすいタイプ”なので、意気に感じただろうことは想像に難くなく、のちのちまで手放さなかったとの逸話が『武辺雑談』にある。
姉川の合戦前日の1570(元亀元)年6月27日の軍議の内容と家康の反応も伝わっている。一番詳しいのは『三河物語』で、次のような挿話がある。
信長は、明日の役割分担を述べた。
「1番合戦(第1陣)は柴田勝家、明智光秀、森右近(忠政。蘭丸の弟)。家康殿には2番合戦(第2陣)をお願いしたい」
家康は援軍、いわば客分なので、妥当な人事といえたが、家康は不満を表明した。
「是が非でも、第1陣を仰せつかりたい。援軍は援軍に当たるのが筋。朝倉勢と戦う先陣を我ら徳川勢にお任せあれ」
信長は、家康の決意のほどがわからなかった。
「1番も2番も同じではござらぬか、徳川殿。2番といっても、時により1番になることも多いから、ここはひとつ、2番をお頼み申す」
「合戦の流れで、たとえ2番が1番になったとしても、後世の書物には、1番は1番、2番は2番と記されまする。某<それがし>が年寄りなら3番でも4番でも異存ござらんが、まだ30手前の某が加勢仕る以上、末世まで2番と語り伝えられることは迷惑至極でござる。とにもかくにも、1番陣を仰せつけくだされ。そうでなければ、明日の合戦には出陣いたしませぬ」
まるで駄々っ子のような言い草だが、家康は死を覚悟して参戦していたのだ。
「家康殿の1番は迷惑」と異を唱える者もいたが、信長は「推参者ども、何を知った風なことをぬかす」と一喝、家康の1番陣が決まったと『三河物語』は記しているのである。
ところが、『三河後風土記』では、一夜明けた決戦当日の朝になって、信長は家康に使いを送って、こう述べたという。
「昨夜、軍議で決めたものの、わが怨みは浅井長政にあるので、この信長自身が浅井を討たねばならぬ。徳川殿は朝倉を討ってくだされ」
そのことを知った酒井忠次(徳川四天王・徳川十六神将の筆頭)は、不満たらたらだった。
「わが方の兵はすでに浅井に向かっております。それを今になって急に陣備を変えたりすれば、隊伍が乱れてしまいます」
「よいか、忠次。浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢へ向かうのが勇士の本領ではないのか。ここは、黙って織田殿の仰せに従うのだ」
そういって、使いの者を返したという。
この挿話からだけでも、家康は「律儀」の上に“度”がいくつもつく人物だったことが理解できよう。