人質の元康が貧乏くじを引くはめに
■義元、沓掛城に入る
今川義元の居城は、駿河国(静岡県中部)にあった。駿府城である。
1560(文禄3)年5月8日に三河守に叙任されると、機は熟したと判断。その4日後の5月12日、2万5000もの大軍勢を率いて駿府城を後にし、上洛の途についたのである。その今川の先遣隊に、母親似の丸顔の若武者、19歳の元康もいた。
元康の「元」は、今川義元の「元」だ。14歳で元服したときの烏帽子親となった義元から与えられた一字であり、「人質とはいえ、目をかけられてはいた」と推測できる。
諱<いなみ>から一字を与えることを「偏諱<へんき>」といい、戦いで手柄を挙げた武将に城主が与えることもあった。「元康」という名は「家康」に改名する22歳の7月まで続くことになる。
今川勢は、浜松を経て16日に岡崎に入り、17日に三河と尾張の国境近くまで進軍し、18日には尾張国愛智郡(愛知県豊明市)にある沓掛城に入城した。
すると、そのときを待ちかねたかのように、今川の属城の1つである大高城から助けを求める使者が来た。
「信長軍に包囲されて動けない。兵糧が尽きたので、補給してほしい」
大高城は、沓掛城から約10キロのところにあった。室町時代に尾張国知多郡(愛知県)に築造された城だが、永正年間(1504~1521年)に今川義元の属城となり、義元の重臣鵜殿長照が城主を務めていた。長照は義元の妹婿であり、黙って放置するわけにはいかなかった。
ここまでが桶狭間の戦いの序章である。
■合戦前日、生母に会う
元康は、信長との戦いで戦死するかもしれないと思い、その前日、ひそかにある人に会いに行った。3歳のときに生き別れた生母お大(於大)の方である。
お大は、織田方の久松俊勝と再婚して、その居城「阿久比城」(愛知県知多郡)に住んでいた。お大は驚いたが、16年ぶりに会う、別れたわが子が立派な姿になっているのを見て涙を流し、元康もまた涙にむせんだという。
お大は、「生家を相続した異母兄(水野信元)が従属先を今川から織田へ鞍替えした」という理由で、元康の父(広忠)に離別された関係で、そのときは実家の居城には入れてもらえず、城の近くの椎の木屋敷というところに住み、水野家の菩提寺「楞厳寺<りょうごんじ>」(曹洞宗)で仏門に入った。
※NHK大河ドラマでは「お大が会いにきた」という設定にしていたが、どっちの解釈でもいいということにはならない。家康自身が会いに行ったのとそうでないのとでは、覚悟の仕方とか家康の性格や考え方などが大きく異なってくるからだ(著者・城島談)。
自立してからの家康の女性の好みは、秀吉と違って、顔や身分を少しも気にしなかっただけではなく、後家や出産経験のある者を何人も側室にしたが、その理由は、幼くして別れた母お大の方への思いを心の奥で追い求め続け、母親のような包容力がある女性を追い求めていたからではないのか。私には、そう思えてならない。
義元は、重臣たちを集めて戦評定を開いた。主な議題は2つ。まず、大高城への兵糧入れを誰にするか。もう1つは、「軍勢を先遣隊と本隊の二手に分ける」との軍令の通達である。
すぐに決まらなかったのは、大高城への兵糧入れだった。「誰かやる者はいないか」と義元がいうと、家臣たちは「兵糧補給の任務はこれから始まる織田勢との戦いの前哨戦となるから、命の保証がない」と言い繕ろって、誰も引き受けようとしなかった。それくらい危険な任務だったが、結局、人質の元康が貧乏くじを引くはめになった。
義元は、出陣の準備をさせるために岡崎城へ一時“里返り”させている元康に使いを送り、「大高城へ兵糧を運び入れるように」と命じた。すると元康は、「心得候」(承知しました)と即断即答した。驚いたのは、経緯を知らない元康の側近たちだ。
「大高城の包囲網が厳重すぎて、そう簡単に兵糧を城内に運び入れられる状況にはなく、命を落としかねません」
などと諫言、それらしい理由を何か考えて、懸命に出陣を思いとどまらせようとした。