諸将は獅子奮迅の元康の雄士に男泣き
元康はといえば、ここでも城内になだれ込んで放火させ、さっと引き上げた。「完膚なきまでに叩きのめすべきでは」と不思議がる家臣たちに元康が告げた言葉が『東照宮御実記』に記されている。
「敵の攻撃目標は、この城だけではない。他の城から援軍がやってきたら、たちまち危ない局面に一変する」(敵、この一城にかぎるべからず。所々の敵、城よりもし後詰せば、ゆゆしき大事なるべし)
元康は、攻略順を誤らないように徹底した。
「まず、枝葉を伐きりて、本根を断つべし」
付城の西の広瀬城をまず落とせと命じたのだ。
元康が、東広瀬城(愛知県豊田市)を落とすのは、これより5年後の再攻略時になる。
3日目の家康は、複数の城を相手にした。挙母城(同)、梅坪城(同)、伊保城(同)へ押し寄せると、あっちこっちの外郭に火を放ち、さっと踵を返した。
古手の諸将らは、獅子奮迅の若武者元康の雄姿に、元康の祖父清康の面影を重ねて、男泣きするのだった。そのくだりを『三河物語』は次のように記している。
「弓矢の道をどうされるのだろうとずっと不安に思ってきたが、やることなすこと、これほどまでに亡き清康様に生き写しであることの目出たさったらない、と皆が涙を流して喜んだ」
同書の著者は大久保忠教といってもピンと来ない人もいるだろう。映画や講談などでお馴染みの“天下の御意見番”大久保彦左衛門という通称なら知っているのではなかろうか。
■今川義元の夢と野望
駿河・遠江・三河(静岡県中央部・同西部・愛知県中東部)の3国を制した今川義元には、天下取りの夢と野望があり、将軍になれる資格があった。総髪で、歯に鉄漿(おはぐろ)を塗り、胴長短足とされる今川義元の大きな夢と野望を後押ししてきたのは、名家の血だった。
尊氏以来、室町幕府の歴代将軍を継承してきた足利家とは血でつながっているのだ。今川家は、足利宗家の継承権を持つ吉良家の分家で、将軍家の血統が絶えた場合は吉良家が継ぎ、吉良家に男子がいない場合は今川家が継承できるという権利を保有していた。
“竹千代の人生劇場”の開幕ベルを鳴らしたのは、父広忠だった。信長の父信秀に攻略されて、義元のもとへ逃げ込んだのである。義元は、松平家を庇護する代償として1549(天文18)年に8歳だった竹千代を人質に取り、1554(天文23)年には武田・北条両家との間で同盟を結んだ。「甲相駿<こうそうすん>三国同盟」がそれだ。
同盟というと聞こえはいいが、実態は姻戚関係の構築を狙った露骨な政略結婚で、駿河の義元は娘を甲州の武田信玄の息子(義信)に嫁がせ、信玄は娘を相模の北条氏康の息子(氏政)に嫁がせ、氏康は娘を義元の息子(氏真)に嫁がせるという驚くべきものだった。三国同盟から遡ること17年、義元自身が武田信玄の姉(武田信虎の娘)を正室に迎えている。
近隣国で義元に反旗を翻しているのは尾張国(愛知県西部)を所領する織田家で、清州城(愛知県清須市)を根城とする信長は、美濃国(岐阜県南部)の領主斎藤道三の娘濃姫(帰蝶)を正室に迎えていた。清須城は、信長が21歳のときに叔父(信光)と共謀して守護代の織田信友を殺し、奪取した城である。