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信玄が家康の情報戦に翻弄された?
■三方ヶ原、「独断」の報い
三方ヶ原は、浜松の北方にある縦12キロ、横8キロ程度の台地である。徳川家康と武田信玄が戦った当時は、雑草以外には曲がった松くらいしか生えていない砂礫地だった。そして北から南へ傾斜し、幅30メートル、長さ20キロの亀裂が走った陥没地の「犀ヶ崖」より南は傾斜が激しくなっていた。徳川軍が布陣し、武田軍を待ち構えたのは、その犀ヶ崖の北である。
三方ヶ原の戦いで、よく比較されるのは「陣形」(隊形)の違いだ。
武田軍は「魚鱗の陣」で、信長・家康連合軍は「鶴翼の陣」を敷いた。どういう陣形かは、名称からおよその見当がつこう。簡単にいうと、魚鱗の陣は「魚の鱗のように密集した布陣」で、鶴翼の陣は「鶴が翼を広げたように敵を包み込む布陣」である。
家康・信長連合軍の主将は、以下のようだった。
右翼 酒井忠次、織田の援軍(滝川一益、佐久間信盛、平手汎秀)
左翼 石川数正、大須賀康高、小笠原長忠、松平家忠、松井忠次、本多忠勝
本陣 家康、馬回り組(旗本)
先鋒 榊原康政
それにしても不思議なのは、双方とも兵法の教えとは真逆の陣形を取った点だ。
先述したように、家康が選んだのは、軍勢が多いときに効果を発揮する縦列隊形の「鶴翼の陣」で、武田軍は軍勢が少ないときに効果を発揮する横列隊形の「魚鱗の陣」を選んだのである。
どう考えればよいのか。家康が自軍を大きく見せようとしたことはわかるが、信玄はなぜ自軍の規模を小さく見せる必要があったのか。家康に油断させ、野戦に引っ張り出そうとしてわざとそうしたのだろうか。家康に籠城されたら持久戦になり、当初の目的である上洛が果たせなくなる危険性がある。そうはさせじと信玄は、敵城を前にして方向変換し、三方ヶ原へ誘い出そうとしたのか。
対する家康は、イチかバチかの“情報戦”に賭けていた。「織田の援軍の第2弾が陸続として岡崎山中からこちらへ向かっている」との嘘の情報を流させたのだ。信玄はそれを真に受け、織田勢を実際の10倍ないしは20倍くらいになると読んでしまった。“52歳の大ベテラン”信玄が“31歳の若輩”家康の謀略に、まんまと、はまったのである。
そういう駆け引きがあって、いよいよ戦闘が開始されると、戦国一の騎馬隊といわれている武田軍がとんでもない攻撃を行った。いっせいに石つぶてを投げたのである。織田・徳川連合軍が面食らっているところへ、武田軍の騎馬隊が余裕をもって突進した。狙ったのは、連合軍の弱点「士気の劣る信長軍」だ。鶴翼の陣はあっというまに崩れて、連合軍はたちまち窮地に立たされた。