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信玄はまともに戦って勝てる相手ではない
■九死に一生「三方ヶ原の戦い」
徳川家康の生涯で最大の危機を2つ挙げるとしたら、上洛する武田信玄と戦って大敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」か、信長に招かれて堺見物に出かけた先で「本能寺の変」が勃発して逃げ帰った「伊賀越え」ではないか。どちらも、自決する一歩手前までいったからだ。
家康は、伊賀越えでは、明智光秀軍に追われる不安と戦い、いつ襲ってくるか予測がつかない土民らの落ち武者狩りに脅えながらも決死の思いで逃走したが、三方ヶ原の戦いでは、信玄の大軍に追いつめられ、「もはや万事休した」と腹をくくり、自決しようとしたところを忠臣に制止され、かろうじて居城まで逃げおおせることができた。
三方ヶ原の戦いは、武田信玄との戦いである。信玄には上洛して天下人になるという大きな野望があったが、国境を接した周辺国との関係から容易には動けなかった。特に脅威だったのは、犬猿の仲ともいうべき越後の上杉謙信の動きだった。
信玄にとって謙信は、千曲川と犀川に挟まれた川中島で幾度も対戦を繰り返してきた不気味な存在であり、気を抜けば、いつなんどき侵攻してくるかわからなかった。
川中島で最初の“信・謙勝負”が始まったのは、1553(天文22)年で、そのとき家康は、竹千代という名の12歳の少年で、人質として今川義元の監視下にあったが、両雄のことは聞き知っていた。そのとき信玄は33歳、謙信は24歳だった。参考までに信長は20歳、秀吉は17歳だ。
武田信玄が上洛へと動いたのは、姉川の戦いから1年後の1572(元亀3)年、家康が31歳の秋である。前年10月に信玄と敵対していた相模国(神奈川県)の戦国大名北条氏康が没し、息子の氏政が家督を継いだことで、両国の関係が改善され、「甲相同盟」が復活したからだった。
そのとき氏康は58歳、氏政25歳である。氏政は次男だったが、嫡男が夭折したために跡目を継いだ。母は武田信玄の娘である。武田家と北条家は、政略結婚で誕生した親戚なのだ。甲相の甲は「甲州」の甲、甲斐国(山梨県)。相は「相州」の相、相模国である。
戦国大名間の同盟ほど脆いものはない。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵。いつなんどき、攻め込まれるかわからない。そういう不信感と恐怖心が常につきまとう。
武田・北条の場合は、1544(天文13)年から1568(永禄11)年まで「甲相同盟」を結んでいた。家康の年齢でいうと、3歳から27歳までの長きにわたった両国の同盟関係だったのだが、信玄が北条軍の拠点である深沢城(静岡県御殿場市)を制圧したのが原因で破綻、北条氏康は今度は謙信と「越相同盟」(1569〈永禄12〉年)を結んだのである。越相の越は「越州」の越、越後国(佐渡島を除く新潟県)だ。
■一向一揆という難敵
信玄と謙信の対立の裏には、もう一つ、一向一揆という大きな宗教問題が絡んでいた。一向宗徒は信玄に味方し、謙信に敵対したのである。その理由は、“一向一揆の元締め”というべき顕如の正室が信玄の正室の妹という血縁関係にあったからである。
上杉謙信は、信玄と北条氏政の同盟と一向一揆という2つの“負の出来事”によって、動くに動けなくなっているのだ。信玄にとっては、上洛を決行する千載一遇のチャンス到来である。
信玄は、動いた。まず9月29日に山縣昌景率いる5000の軍勢を先陣として送り出し、自らは10月3日に2万の軍勢を率いて甲府を発進、京の都へ向かって西上を開始した。その2万5000に、さらに、同盟を結んでいる北条氏政の援軍2000も加わって総勢2万7000の大軍である。
信玄が京へと向かう道筋に最初に立ちはだかっているのが遠江・三河を支配する家康だったが、兵力差は歴然としていた。122万石の信玄に対し、家康は56万石(姉川の戦いのときより4万石減)だから、理論上の兵力は武田3万、徳川1万4000。倍以上の戦力である。加えて、武田には日本一の騎馬軍団がいた。まともに戦って勝てる相手ではなかった。
しかも、信玄は“日本一の知将”といわれるだけあって、進軍する道筋の地理をとことん調べさせ、満を持しての西上だった。
信玄が警戒したのは、家康と謙信が親密な関係にある点だった。謙信が家康に援軍を送りはしないかという不安である。
家康は、29歳のときに上杉謙信と誓書を取り交わしており、「親・謙信、反・信玄」という旗色を鮮明に打ち出している。30歳の2月には名刀(守家の刀)を、8月にも唐頭を贈って謙信を喜ばせている。信玄は、そういう情報も把握していた。贈答品の詳細は後述する。
だが、謙信は援軍を送らなかった。だからといって、安心はできない。同盟を盾に信玄に背後から襲ってきて挟み討ちに遭う懸念もあるのだ。そこで信玄は、謙信が動けないように国境に1万の軍勢を張りつかせた。