徳川家康は50代から「大勝負」
本連載では、「決断」を年代別に区切る手法をとっている。年代別に見た家康のキーワードは、10代が「波瀾」、20代は「自立」、30代は「苦難」、40代は「危機管理」で、50代が「大勝負」ときて、60代から70代までは「完璧」を目指すというように位置づけている。
10代の「波瀾」は、6歳から19歳まで続いた「人質暮らし」という「逆境のなかで培かった『選択力』と『決断力』」がテーマだ。家康は、最初は織田家、8歳のときに今川家に売られた。
親が反旗を翻そうものなら報復として命を奪われる。そんな危険と背中合わせの逆境のなかで、家康は逞しく初陣を果たし、今川義元の命で「桶狭間の戦い」にも出陣する。
20代を象徴するのは「徳川家康への改姓改名」で、「信長と結んだ天運と武将家康の『武断』」がテーマだ。今川義元の死で、ようやく自由の身となった。そんな家康に目を付けたのが、桶狭間の戦いで義元を討ち取る大金星をあげた信長だった。攻守同盟の締結を求められた家康は、受諾を決断。弱小大名が生き延びるには、それが最善と考えたのだ。同盟は本能寺で信長が死ぬまで続く。
23歳の城主家康は、「一向一揆」の洗礼を受けるが平定し、三河をほぼ制圧する。20代最後の年に「姉川の戦い」に参戦。家康は、信長が「死ぬつもりか」と驚くほど暴れまわって信長の窮地を救い、「ただ者ではない」「類まれな戦巧者だ」と評判をとる。
30代は、「弱小大名が生き残るための『賢断』」がテーマである。家康は、31歳で〝巨敵〟信玄に挑んだ「三方ヶ原の戦い」で大惨敗を喫したが、34歳のときの雪辱戦「長篠の戦い」では、信長考案の「鉄砲を駆使した新戦法」で無敵を誇る武田騎馬隊を潰滅させ、大勝利をおさめた。
一方、嫁姑問題から信長を怒らせ、正室と嫡男を自ら殺さねばならない辛い決断をし、「軍事同盟の光と影」を身をもって知る30代となった。
40代は、「本能寺の変」で堺から決死の脱出を図る「伊賀越え」で見せた「険しくも相手の虚をつく最短進路を選んだときの『速断』」が主要テーマとなる。スポーツを見ていると、追いつめられて万事休したと思われた瞬間、日頃の猛練習で身につけた技がとっさに出て逆転勝ちすることがある。それと同じで、命の危険が迫ったときの「即断」や「速断」は、それまでの体験から生まれる。
家康は、41歳の年に「天目山の戦い」で武田氏を滅ぼし、「天正壬午の乱」で織田・武田両氏の旧領を獲得するが、信長の後継者を決める「清須会議」では秀吉に先を越され、42歳で「賤ヶ岳の戦い」、43歳で「小牧・長久手の戦い」を体験、目の回るような忙しさのなかで、さまざまな決断を重ねるのだった。
50代は、いよいよ「天下分け目の戦いを制した『勇断』」がテーマである。秀吉が強行した朝鮮出兵では、有力大名らが渡海して疲労困憊し、武断派と文吏派の対立が激化するなかで、家康は朝鮮へ行くことなく、兵力の温存を図った。このことが関ヶ原の戦いを有利にした。
60代からは、政治も人生も最終局面であり、大御所となって駿府に引っ込んだふりをして、江戸の将軍との「二元政治」を開始し、徳川百年の計略を思案する。そして70代では人生の総仕上げとして戦争のない平和な世の中「元和偃武」をつくるために、平家を教訓に豊臣家を「大坂の陣」で滅したのである。
家康の人生は、降りしきる雪のなかの「竹」に似ている。葉に雪が積もると、竹は大きく撓(たわ)むが、折れずに耐え続け、バッと雪を跳ね飛ばす。「撓む」は「撓(しな)る」とも言い、音読みでは「不撓不屈」の「撓」である。どんな困難、辛苦に遭ってもくじけない。それが不撓不屈だ。
人は生涯で幾度、「決断のとき」を迎えるであろうか。自信たっぷりに笑顔で決断を下せる日もあれば、祈るような気持ちで決断する日もあるだろう。さまざまな種類の決断を過去にしてきたのと同じように、これからもしていかねばならない。そういう場面で少しでも役立つことがあれば、幸甚である。
城島 明彦
作家
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