支援を求める人にとって必要な公的支援
■人を突き放す「ひきこもり」という分類
「ひきこもり」という言葉は、随分と一方的な宣告ではないかと感じています。「ひきこもり」というジャンルをわざわざ設けて、そこに人を押し込んでいるかのように感じることがあります。
「ひきこもりからの社会復帰」「ひきこもり脱出法」。社会現象としてあえて取り立て、人を狭い概念で「隔離」しようとしていないかと感じるのです。「ニート」や「不登校」という言葉もそうかもしれません。管理する人間の側から、人の居場所を否定的に捉える貧しい価値観が反映していないでしょうか。
「自室や家からほとんど出ない状態に加え、趣味の用事や近所のコンビニなどに出かける以外に外出しない状態が6カ月以上続く」。内閣府は「ひきこもり」の定義を広義で捉えて、わざわざこんなふうに表現しています。
内閣府が2019年3月に公表した推計では、こうした「ひきこもり」の人は、40歳~64歳だけで全国で61万3000人いるそうです。7割以上が男性で、「ひきこもり」の期間は7年以上が半数近くを占めています。15歳~39歳では54万1000人いる推計です。
厚生労働省は2009年度に「ひきこもり対策推進事業」をスタートさせました。行政が、自室や家からほとんど出ず、仕事もできない状態の国民を支援し、対策を講じようとすることは必要だと思います。教育、勤労、納税の3つは国民の義務ですから、その義務を果たしてもらおうとする大義名分は行政にはあります。
また、何より「ひきこもり」をやめたいと考え、支援を求める人たちにとって、公的な支援は欠かせません。
しかし、気になるのは評価や価値観、概念の問題です。「ひきこもり」「ニート」「不登校」という、冷たく、どこか失礼で、人と人との間に線を引いて区切ろうとするような言葉。まるで、「こちらは正しいですが、そちらは正しくないのではないか」と一方的に追い詰めようとしているかのようにも感じます。
物事を判断する尺度は多くて、広くて、弾力的なのがいいはずです。個々の人はもっと自由であっていいはずです。
もっと、人間に優しい言葉はないのでしょうか。極論ですが、「ひきこもり」の現状がその人にとって、心地いいことであり、その環境が許されるなら、ただ見守るだけで、いいのではないでしょうか。
私の友人のTは、3年間浪人して、やっと大学に合格しました。浪人生活の2年目、3年目は、節約のため予備校に行かず独学。食事は自炊で済ませ、都内の狭いアパートで懸命に勉強する毎日でした。
Tは大学卒業後、スポーツ新聞社に入社し、毎日、夕方から未明まで、紙面をつくる仕事をしていました。どの記事を1面に持っていくか。どんな見出しにしようか。写真はどのカットを使おうか。印刷に回す締め切りギリギリまで働き、朝方に帰宅することも珍しくありませんでした。
そんな生活がたたり、自律神経がおかしくなり、職場に行けなくなってしまいました。会社を辞め、離婚もしました。20年近く、定職を持たず、できるだけお金を使わず、狭い部屋で、ひとり、ひっそりと暮らしています。長い間服用していた処方薬は、最近は飲まずに済むようになったそうです。
「飲み会に誘ってくれれば行くから、俺はひきこもりじゃない」
冗談交じりにTは言います。世間がTをひきこもりと分類しようとしても、Tが違うと言っているので、Tは、ひきこもりではありません。
「俺は社会の底辺にいるから気が楽だよ」
Tは自分のことを自虐的にこう言います。
「人生は壮大な暇つぶしだよ。仕事も、結婚も、離婚も、浮気も、みんな壮大な暇つぶしだ。笑ってなきゃだめだよ。笑っていれば、良いことがあるんだから。口角を上げようや」
Tはこう言いながら、いつも明るく振る舞います。Tを元気づけようと電話をすると、逆に、いつも励まされてしまいます。Tの価値観は、多様で、奥深い。彼は、私にとっても、社会にとっても、かけがえのない存在なのです。