歴史や過去、教科書との向き合い方
■「歴史」「過去」「教科書」を鵜呑みにしない
NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』は2021年2月に最終回の「本能寺の変」で完結しました。家臣の明智光秀と主君の織田信長を独自の視点で描写したこのドラマをみなさんはどう見ていたでしょうか。明智光秀が“悪者”となるイメージとは少し異なり、2人の“絆”を強調するなど新鮮な感じも受けました。
歴史のドラマや小説などをめぐっては、歴史学者の中には、史実とちょっと違うじゃないかと受け止めた人もいたかもしれません。歴史上の人物のイメージは、ドラマや時代小説などの描写に左右されがちです。例えば、坂本竜馬に対する私のイメージは、若いころ夢中で読んだ『竜馬がゆく』(司馬遼太郎、文藝春秋)そのものです。
時代小説は様々な視点や脚色で読者を楽しませてくれます。しかし、あくまでも小説であって、当時、起きた史実をすべて忠実に記しているわけではありません。そこをわきまえて楽しめばいいのでしょう。
では、小中高の教科書や、権威ある歴史書はどうでしょうか。
やはり、100%忠実に表現するのは難しいと考えます。まず、当時の記録をどんな立場の人がどう書いたのか。権力者や為政者の視点から書かれた記録が多いのではないでしょうか。読み書きができない人たちの感情や本音はどこまで記録に反映されていたのでしょうか。
主人公はいつの時代も民、民衆、大衆だと私は考えています。ドラマに出てくる英雄は現代に語り継がれますが、民、民衆、大衆、市民、国民の息遣いは、記録としてなかなか客観的に網羅されていないかもしれません。そうしたアンバランスの記録も、すべて現在に伝えられているわけではないと思います。事実がどんな理由で、誰によって、どう引き継がれたのか、はっきりしない要素も残るでしょう。
史実の記録はその時代のすべてではなく、一端にすぎないうえ、伝承も一部です。そうした中から、教科書は、どう選択し、表現するのか、編集の課題も生じます。特に、教科書検定という制度によって内容を審査する過程では、政府の判断が加えられます。
教科書に書かれたことに間違いがあると指摘しているわけではありません。長い歴史をすべて網羅したうえで、100%の客観性に基づいた教科書など、なかなか存在し得ないのではないかという柔軟なセンスを踏まえておきたいのです。
タイムマシンで過去にさかのぼって、すべてをチェックできるなら、当時の政府や政権などが事実を捻じ曲げて記録していた場合、そのことを確認できるかもしれません。
例えば、正確に記録された事実が100年後の政権によって、不当に書き換えられたりしたことがあったかもしれません。すべての事実をすべて客観的に確認できない以上、やはり歴史のすべてを忠実に把握することには限界があるのではないでしょうか。
このことを踏まえて、歴史や過去と向き合えばいいのではないかと思います。世界各国の歴史についても同じことが言えるでしょう。つまり、教科書や優秀な歴史家が書いた記録であっても、限界があるということを念頭に入れておけばいいのだと思います。
別な言い方をすれば、私たちの目の前にある、権威ある過去の記録をすべて鵜呑みにしたり、都合よくそれを解釈したりすることは、ナンセンスではありませんかと問いかけているのです。
歴史上の登場人物や事象に対する評価は、時代とともに変化することがあります。例えば、昭和の時代、異能と言われた田中角栄さんの首相としての賛否の評価はどう受け継がれていくのでしょうか。国民に多大な負担を強いた1997年以降の日本の金融危機をめぐり、大蔵省や政治家や銀行経営者の責任がどこかの時代で、うやむやにされることはないでしょうか。
日本再生への期待が大きかった「アベノミクス」をめぐる評価は様々ですが、私は失政だったと結論づけます。この失政という声は記録として拾ってもらえるのでしょうか。
岡田 豊
ジャーナリスト
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