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朝鮮戦争で中国が失った西側との交流
■「開発独裁」に乗っかった中国
「開発独裁」という言葉があります。『広辞苑』では〈経済の開発・成長を強権的支配の正統性の根拠とする独裁的な政治体制。〉と定義されていますが、要するに経済発展のために民主主義や福祉、自由の尊重などは後回しにして、工業や資源開発、軍事などを優先することで国力向上を図ろうとする体制です。
戦後、アジアなどの途上国、植民地支配を受けた途上国が離陸するためには、開発独裁もやむを得ないとされました。
自由選挙で誰でも政権の座に就けるようにすると、混乱に混乱を重ねるだけだから、ある程度成熟するまでは独裁主義でやむを得ないという考え方で、インドネシアなどが典型例です。インドネシアがスハルトの独裁体制で成功したのは事実でしょう。その後、スハルトがアジア通貨危機で政権から追われて、いろいろ混乱があって時間は要しましたが、民主主義が定着してきました。
もともと西側先進国は中国に対しては開発独裁が進行して、結果的に民主主義に移行すると思い込んでいました。それでかなりの資金援助をした。だけど、中国は違っていました。開発独裁後、民主化どころか政治的にさらに独裁権力を強めていって、なおかつ膨張主義、所謂帝国主義をやるまでになった。
鄧小平は「国の指導者は経済成長を目指さないと権力の座を追われる」と身をもって理解していたのでしょう。だからこそ開発独裁を実行し、いまの中国が出来あがっていったのでしょう。
■朝鮮戦争で中国が失ったもの
鄧小平とは対照的に、毛沢東は市場原理を敵視し、マルクス・レーニンの教条主義者でした。資本主義などとんでもないという毛沢東でしたが、1949年10月1日の中華人民共和国建国宣言のときには、結構な数の資本家が共産党に入っていました。
これは先にも述べましたが、蔣介石の国民党政権は汚職まみれで、腐敗の塊でした。それに嫌気がさしたまともな資本家が共産党を支えました。そのため経済が結構順調に推移しそうだったのですが、1950年6月に朝鮮戦争が起きてしまいます。
最初は北朝鮮軍が優勢でしたが、同年9月のアメリカ軍等による仁川上陸作戦を契機に戦局が大きく変わり、10月下旬には中朝国境の鴨緑江に国連軍が達します。危機感を持ったスターリンは「中ソ友好同盟相互援助条約」に基づき、中国に肩代わりを求めました。中国共産党も体制の危機を感じ、鴨緑江に義勇軍と称して人民解放軍を人海戦術で大量投入しました。
そんなことで、中国は建国直後に自由主義陣営との交流の芽を断たれてしまいました。もし朝鮮戦争が起きなかったら、意外と西側との交流が早くから行われていたかもしれません。それが朝鮮戦争への義勇軍投入で、東西冷戦の渦中、最前線に立たされてしまったわけです。