経済紙は大事な人の心の問題を無視する
■経済紙の宿命
『日経新聞』記者時代、頻繁にアメリカに出張していたころに親しくなった人のひとりに、カトリック系新聞の記者がいます。元『フィナンシャル・タイムズ』のアメリカ総局長をやったイギリス人でした。
彼に「『フィナンシャル・タイムズ』の幹部までやったのに、なんで宗教関係の新聞の記者をやってるんだい」と聞いたら、「ミスター・タムラ、『フィナンシャル・タイムズ』って経済紙だろ。そういうお前さんも経済紙の記者。経済紙って大事な人の心の問題を無視するんだ」と答えました。
要するに、何かヒューマンな要素が経済ジャーナリズムには欠けているというわけです。経済というのは、株式、金利、企業利益など数値で表される世界が主ですから、どうしても数値化できない人の心が捨て去られてしまうのです。そして、そうしたデータ情報の出し手である政府や企業、金融機関には甘くなる。謂わば、体制に順応しがちになるのです。
『ワシントン・ポスト』や『ニューヨーク・タイムズ』のように、ホワイトハウスとの喧嘩も辞さないという毅然とした対応はできない。実際、両紙はニクソン政権のときにウォーターゲートやペンタゴン・ペーパーズのスクープをやり、全米を震撼させました。
「書きたいことが書けない」のは経済紙の宿命みたいなものかもしれません。財務省の権威に頼らざるを得ないとか、メガバンクを揺るがすようなスクープを打つと社会に悪影響があるとか、いずれにしても取材源なので、記者はそっぽを向かれたくない。政治部の記者も時の政権に弱いということがあります。
直接取材対象になる組織や人を情報源にしなければいいのですが、一方で情報は取らないといけないので、そうも言っていられない。
どうしても人情というものもあります。ウォーターゲート事件をスクープした『ワシントン・ポスト』の記者はボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインですが、バーンスタインが自著で、大統領といつもファーストネームで呼び合うような仲では、世間を騒然とさせる大スクープは取れないと書いていたことを思い出します。人情が邪魔するのでしょう。
思えば、親しくなった経営者(貴重な情報源になった人が複数いますが)に関しては、確かに書きづらい。ただ社会的に、あるいは国民的に重大な影響がある話だったら、遠慮せずにきちっと書きます。情報源については絶対明らかにしないなど、配慮をしつつ書きます。そのほうがあえて秘密情報をリークしてくれた相手のためになりますし、結局リスペクトされると思うのです。
逆に相手のことばかり忖度して何も書かない、あるいは提灯記事を書くとバカにされるし、舐められます。日本のエリートはさすがにそういうことはわかっています。政治家でもきちんとした人はそうです。大体は「お、書いたな、君は」と評価してくれる。
私はずっと、それこそアベノミクスの前から、もっと財政出動と金融緩和の両方を積極的にやらないとデフレから脱却できないと書いてきました。それで安倍晋三元総理がアベノミクスを始めたとき、当然正しい政策だと擁護する記事を書きました。
ただ、消費税の増税をするときには猛烈に反対をしました。でも安倍さんは私を評価することはあっても、恨むことはないと確信しています。財務省の幹部は、私がきちんと筋を立てて、緊縮財政や消費税増税を批判するとしっかり読んでくれても、反論しようとはしません。「金持ち喧嘩せず」、かもしれませんが。