「鎌倉殿」独裁から「法の下」の武家政権
第3代執権の北条泰時は、5代目「鎌倉殿」になったのでしょうか?
泰時は新しい時代を迎えるべく、頼朝以来の大倉御所を移転し、人心の一新もはかりました。新たに連署という職を設けたのです。連署は執権の補佐役、すなわち幕府の公式文書に「執権と連4名で署4名する役」を担っていました。
初代の連署には、頼れる叔父・北条時房が就任しました。六波羅でともに朝廷と交渉にあたり、その能力も気心も知れています。
さらに泰時は、13人合議制のリニューアル版を設置しました。政務能力のある11人の御家人を評定衆として選び、合議によって幕政を運営することにしたのです。
将軍が表に出ることはありません。執権・連署・評定衆という合議体制が新時代の「鎌倉殿」になったといってもよいでしょう。もちろん、だれも「鎌倉殿」とは呼んでいませんでした。そもそも、初代頼朝のようなボス「鎌倉殿」は必要なくなっていたのかもしれません。
評定衆には当初、三浦義村や大江・中原・三善・二階堂の子息らが名を連ねていましたが、やがて北条一族が占めるようになりました。
鎌倉幕府はこうして、「鎌倉殿」の独裁体制から、宿老による13人合議制という短命の行政組織を経て、さらに“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”、承久の乱を乗り越えて、「新生合議制」による執権政治へと成熟していったのです。
1232年、北条泰時は「御成敗式目」(貞永式目)を制定しました。
それまでの武士の慣習・道徳にのっとった、武士による初めての成文法でした。朝廷の律令とは別に、御家人(守護・地頭)の任務・権限、罪を犯した者の刑罰、裁判の手続きなどの基準を定めたのです。泰時は六波羅で朝廷の役人たちと接するなか、時房とともに法理の大切さを学んだのでしょう。
当初、御成敗式目の効力は鎌倉と東国に限られていましたが、しだいに範囲を拡大させていきました。やがて律令や公家法が及んでいた社会にも影響を及ぼすようになります。
源頼朝が平氏打倒の狼煙を上げてから約半世紀、「鎌倉殿」の支配の仕組みは、「法」の支配へと進化を遂げたのでした。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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