政子・義時姉弟が4代目「鎌倉殿」に
■源氏将軍断絶を受けて
実朝の死によって、源氏将軍は断絶しました。
幕府にとっては緊急事態です。早く将軍の空席を埋めなければなりません。
すぐに動いたのは、北条政子でした。
翌日、政子は後鳥羽上皇のもとに二階堂行光※を派遣しました。次期将軍候補の親王をすぐ鎌倉に下向(都から地方に行くこと)させるよう訴願するためです。政子が「尼御台所」から「尼将軍」になった瞬間かもしれません。幕政をどう動かしていくか、政子がリーダーシップを発揮したのです。
朝廷も実朝横死の知らせを聞くと、騒然となりました。
後鳥羽上皇にとって実朝は、和歌・蹴鞠の愛弟子であり、手なずけやすいお坊ちゃまでした。後鳥羽上皇は、実朝が「鎌倉殿」でいる限り、幕府を朝廷の完全なコントロール下に置けると考えていました。
それだけに、上皇にとっても実朝暗殺は衝撃であり、大きな痛手だったのです。
〈実朝の代わりをすぐ立てなければならない〉
幕府と朝廷の思いは一致しているはずでした。政子の命を受けた二階堂行光も、上皇が快諾することを確信していました。
ところが、後鳥羽上皇は態度を一変させたのです。
〈手はず通り、ふたりの親王のどちからを下向させる。しかし、いまではない〉
頼家に続いて実朝も暗殺された、そんな危険な鎌倉に大事な皇子を送るわけにはいかない。親としては、当然の判断かもしれません。かといって、幕府との全面衝突は避けたい。
結局、妥協策として、九条兼実のひ孫・三寅(のちの頼経)が新たな将軍として鎌倉に送られることに決まりました。
といっても、三寅はまだ二歳なので、政子が代わりに理非を判断することになりました。そして実際の政務を執り行っていたのは、執権の北条義時でした。こうして事実上、政子・義時姉弟が4代目「鎌倉殿」になったといってもよいでしょう。
そんななか、今度は朝廷を騒然とさせるできごとが起こりました。幕府の有力御家人のひとり源頼茂が反乱を起こしたのです。
頼茂は都で大内守護(大内裏の警備)の任にありました。政所別当を務めたこともあり、実朝とも懇意の仲でした。
乱を起こした真意は不明ですが、〈みずからが将軍になるための決起なり!〉〈幕府打倒をくわだてようとした院への反抗だ!〉〈幕府に対する上皇の挑発かも?〉など、これまた諸説紛々としています。
頼茂はすぐ討たれましたが、反乱は大内裏で起こったため、上皇の殿舎や多くの宝物が焼失しました。
強靱な精神力をもつ後鳥羽上皇も、さすがに大ショックでした。その後、ひと月余りも寝込んだままだったといいます。
※二階堂行光「13人」メンバー二階堂行政の子。1164〜1219年。幕府の政所別当となり、行政や法令奉行に才能を発揮した。とりわけ政子からの信頼が厚く、兄の行村とともに幕政に深くかかわった。
実朝は宋に渡航しようとした?
はい、事実です。1216年、陳和卿の提案を受け、実朝は巨大船の建造を命じました。当然、義時や大江ら幕府幹部は大反対しました。
陳和卿は重源の招きで宋から来た仏師です。東大寺再建に貢献しましたが、その後朝廷とぎくしゃくし、鎌倉に下って来ていました。陳は実朝に会ったとき、「貴方は宋の医王山の長老の生まれ変わり。なんと貴いことよ!」と涙ぐんだのでした。かつて実朝は、夢で同じお告げを聞いたことがあり、すっかり陳の話を信じ込んだのです。もう、宋に行くしかありません。
しかし、渡航は夢と消えました。幕府幹部が阻止したから? では、ありません。船がデカすぎて、海まで運べなかったのでした。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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