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角栄の口癖は「外務省には気をつけろ」
■リスクをとったソ連訪問
「北の御稜威を取りに行け」
田中角栄なら、こう言うだろう。北の御稜威、つまりロシアのことである。ロシアにこそ日本経済打開の秘策がある。角栄はそれを読んでいた。1973年10月8日、当時のソ連共産党書記長のレオニード・ブレジネフとの会談はその象徴である。
角栄は首相就任2カ月後の1972年9月に日中国交正常化をやり遂げると、間髪入れずに資源外交に乗り出す。前述したように、1973年9月のフランスを皮切りに、イギリスと西ドイツを歴訪した。アメリカに偏った日本のエネルギー調達ルートに欧州を抱き込むことで多角化しようというのが狙いだった。しかし、どういうわけか、外遊の最後にソ連をつけ加えた。
角栄自身は決して外遊好きではなかった。パフォーマンスだけの実のない外交交渉は極力避けようとした政治家だった。
「外務省には気をつけろ。外遊漬けにされて、体をボロボロにされてしまう」
これが角栄の口癖だった。しかし、外遊漬けを警戒していたはずの角栄が、このソ連訪問には強いこだわりを見せた。「断固として行く」と譲らなかったのだ。日本にとって「実」があると踏んでいたのだろう。角栄はその「実」を一国の総理として取りに行った。
では、その実とは何だろうか。
もちろん北方領土である。角栄は北方領土を取りに行ったのだ。
当時、日本とソ連の関係は決して良好というわけではなかった。むしろ冷え込んでいた。
日本とソ連は1956年10月19日、「平和条約締結後に北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)のうち、色丹島と歯舞群島を引き渡す」とした日ソ共同宣言に署名。両国議会の批准を経て同年12月12日に発効した。
当時の日本のトップは鳩山一郎首相、ソ連のトップはニコライ・ブルガーニン首相だったが、2人の平和条約締結交渉はとんとん拍子で進み、いったんは「さあ、条約締結か」というところまで急速に接近した。
ところが、日本の首相が岸信介に代わった後の1960年の日米安全保障条約改定(新安保)で、潮目が大きく変わる。日本がアメリカとの安全保障条約を改定したのを見て、ソ連は「日本はアメリカ陣営に傾いた」と判断、一転して「日ソ間に領土問題は存在しない」と態度を硬化させたのだ。4島どころか、法的拘束力を持つ日ソ共同宣言に明記した歯舞と色丹の2島返還すら破棄したソ連側の態度に、日本側も距離を置き、交渉は停滞した。以後、両国の関係は悪化の一途を辿ったのだった。
ソ連側の懸念は当然である。なぜなら1960年の日米安全保障条約改定で、日本側は北方領土にアメリカ軍が駐留する可能性を明確に否定することができなかったのだ。こうなると、仮にソ連が1島でも返還した場合、たちまちそこにアメリカ軍が駐留する可能性が出てくる。ソ連が領土問題から距離を置かざるを得なくなるのは当然のことだ。
ソ連側から、「北方領土に対しては、日米安保条約第5条(アメリカの日本防衛コミットメント)の適用から除外すべき」という意見も出たが、前には進まなかった。「アメリカが必要に応じて日本の領土に基地を置くことができる」とした地位協定の規定の対象から北方領土を外し、「北方領土にだけは軍事基地ができない、軍隊を駐留できないとする」ことを、日本がアメリカとの間で取り決めることができれば、ソ連も動きようがあった。
しかし、日本はそれができなかった。日本とソ連の間は急速に冷え込み、緊迫感だけが残った。
田原 総一朗
ジャーナリスト
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