最も支持が強いときに、最も難しい問題を
■高支持率の今だからこそ勝負する
田中角栄はこの日ソ間の緊迫を打ち破ろうとした。
日本の現職の首相としては17年ぶりにソ連を訪れ、北方領土問題解決の筋道をつけようとしたのだった。戦後、ソ連を訪ねた日本の首相は鳩山一郎だけで、角栄は2人目だった。それほど日本とソ連との間の溝は深かった。その溝を角栄はあえて飛び越えようとした。首相就任時の高支持率を考えれば、とらなくていいリスクだった。
なにせアメリカの頭越しに日中国交正常化を果たすという離れ業を成し遂げた角栄だ。
得点はすでに十分にあげていた。
日中国交正常化は、現代の視点からみれば当然の流れのように思えるが、当時の日本と日本を取り巻く世界情勢を照らし合わせて考えてみれば、決してそうではなかった。
1952年に台湾(中華民国)との間で日華平和条約を締結していた日本にとって、当時中国の窓口となっていたのは、台湾だった。その台湾を「中国のひとつの省にすぎない」と主張する中国(中華人民共和国)を日本国の首相として正式に訪問するのだ。台湾を切り棄て、中国を取る。まさに命懸けの外交だった。
その証拠に、角栄はこのときの中国訪問に事実上のファーストレディーであった娘の眞紀子を同伴させていない。「もし、眞紀子にまで何かあれば、田中家が絶えてしまう」というのがその理由だった。文字どおり、命懸けだったわけである。角栄に同行することが決まった官僚のなかには、遺書を書き残し、「何かがあればこれを」と家族に託した者もいたほどだ。それほど日中国交正常化交渉は緊迫が予想されたし、難作業だった。
しかし、その難作業を角栄はやってのけた。
そして、今度は「中国のようにロシアとの交渉をやる」という。当然、期待は高まる。最初からハードルが高いぶん、うまく行かなかった場合の反動も大きい。
「日中国交正常化で止めておけばいい。あえてソ連まで手を伸ばさなくても」
そんな声を角栄は押しとどめた。そして強硬にソ連に入っていったのだ。まさに背水の陣だった。ソ連との関係を角栄は決定的に重視していた。日本が北に進路をとることの意味を見抜いていたのだった。
だからこそ、角栄の使命感は並々ならぬものだった。ソ連との関係打開は日本国にとって、避けては通れない課題だと感じていた。
1972年7月7日。角栄は自民党総裁選で福田赳夫を破って「角福戦争」を制し、第64代内閣総理大臣に就任したが、このとき角栄からの要請で通産秘書官からそのまま総理秘書官となった通産官僚・小長啓一は、同乗した車の中で角栄からこう言われたことを鮮明に覚えている。
「人気絶頂にある今だからこそ、為すべきを為さねばならない」
「小学校卒の首相」「庶民派宰相」……。世間はこれを好意的に受け止め、発足当時の田中内閣の支持率は62%。この記録は1993年に非自民連立の細川護熙内閣が誕生するまで破られることはなかったが、角栄はこの支持率に安閑とすることはなく、すぐさま仕事にとりかかった。
「俺は今、『今太閤』と呼ばれている。首相に就任した今こそが、政治権力の絶頂期だ。最も支持が強いときに、最も難しい問題をやる。俺にはやらなければならないことがある」
その「やらなければならないこと」こそ、日中国交正常化であり、さらにはソ連との領土問題の解決、そして平和条約の締結であったのだ。
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