総選挙の敗因は「物価高で生活が不安になった」
■田中政権が2年余りで退陣に追い込まれた理由
だが、このとき、実は日本経済はすでにインフレ気味で、秘書の麓邦明たちが危惧したとおり、「改造論」で箇所づけされた地域の地価は2倍以上に上昇した。「改造論」がインフレを加速させてしまったのである。
どの新聞も、地価・物価高騰に対する悲鳴と、全国各地で起きている土地買い占めのすさまじさを書き立てた。そこで、角栄の列島改造論に対する国民の期待は、急速に反発に変わっていったのである。
こうした中、1972年12月10日に総選挙が行われた。田中角栄という「選挙の名人」が総指揮を執ったにもかかわらず、自民党は解散時の297議席を大きく割り込み、271議席しか獲得できなかった。保守系無所属を入れても285議席にしかならず、明らかな敗北であった。
ブームというものは、上がるのも急速だが、冷めるのも早い。翌1973年5月1日付の朝日新聞が発表した世論調査では、発足時は62パーセントだった田中内閣の支持率が27パーセントに失墜した。一方、不支持率は44パーセントと支持率を大きく上回った。不支持の理由として最も多かったのは、「物価高で生活が不安になった」だった。
そこへ、第四次中東戦争が勃発した。
1973年10月6日、シナイ半島奪回を目指したエジプト軍とシリア軍がイスラエル軍を先制攻撃、イスラエル軍は一旦後退したものの、15日には反撃に転じて、スエズ運河を渡ってエジプトに侵入した。
するとアラブ諸国は石油戦略を発動し、OPEC(石油輸出国機構)加盟ペルシア湾岸6カ国は原油価格の値上げを通告、さらにOAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国は、アメリカ、日本などイスラエル支持国に、石油供給量を制限すると通告してきた。そこで、日本はオイルショックに陥った。
当時、日本のエネルギー源の70パーセントは石油であり、さらにその80パーセントを中東に依存していた。そして、輸入のほとんどをアメリカのオイルメジャーに頼っていた。
原油価格は、一挙に4倍以上に跳ね上がり、地価高騰、インフレが進む中で、オイルショックがダブルパンチとなり、「不況下の物価高」という悪性インフレに陥っていた。 こうした中で、角栄は日本の資源政策を大きく転換し、アメリカのオイルメジャーに頼らない、資源調達先の多様化を目的に、ヨーロッパ諸国やソ連をまわり、積極的な資源外交を展開したのである。
当時、海外の通信社は、「田中政権のアメリカ離れは危険な暴走だ」というニュースをくり返し流していた。これはもちろん、アメリカ政府からの警告であり、明らかに角栄の資源自立政策にストップをかけようとしていたのだ。
1974年2月14日、中国訪問を終えたアメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官が、日本に立ち寄った。そしてわざわざ、「中東和平工作は必ず成功させる。だから日本も外交方針を絶対に転換しないでほしい」と角栄に伝えている。さらにキッシンジャーは、「日本の姿勢がふらつけば、日米関係に重大な影響を与える」と、脅しまで加えてきた。ところが、角栄はキッシンジャーの警告に従わなかった。「資源のない国が生きていくのに、ほかにどんな方法があるのだ」と聞き流したのだ。
当時、私は石油や原子力など世界のエネルギー事情について専門家たちの取材を行っていたが、ロッキード事件が発覚して角栄が標的になっていることがわかると、彼らは「田中はオイルメジャーにやられた」「アメリカに狙い撃ちにされた」などと語っていた。
1974年7月7日、悪性インフレで日本全体がパニック状態に陥る中で、参議院選挙が行われた。自民党は、改選議席数の70を8議席も下回ってしまい、1972年12月の衆議院選挙に続きまたも惨敗に終わった。7月9日、朝日新聞は社説で「国民が田中を見限った」と言い切った。