武士の世の礎を築いた功労者・北条時政
では、いよいよ一人ひとりのプロフィールを紹介していきましょう。
▶初代「鎌倉殿」を支え、武士の世の礎を築く
北条時政
〈読み〉ほうじょう ときまさ
生年 1138年
没年 1215年
出身 伊豆国
北条家の行く末を、ひとりの流人に賭けた――。
このことが東国武士の未来を、ひいては武士の世界の未来を開くことになったのです。鎌倉幕府はもとより、武士の世の礎を築いた最大の功労者のひとりであることは間違いありません。
伊豆国の中小武士ながら、都の貴族と交流した経験が大きかったのでしょう。他の東国ボスでは太刀打ちできない教養を身につけ、幕府の公式文書を作成するだけの実務能力も備えていました。源平合戦の序盤、富士川の戦いの前には、甲斐国の武田氏の協力を取りつけ、頼朝軍に勝利をもたらしました。しかも、血を一滴も流さない不戦勝。ただ、これ以降の奥州征伐も含めた合戦では、目立った活躍はしていません。
「体育」より「国語」「書道」の点数が高く、戦場というグラウンドよりホームルームや学級会で輝くタイプといえます。ただ、その力を過信しすぎたのが、徒になったのかもしれません。年齢を重ねるごとに、マイナスポイントを増やしていきました。曽我兄弟仇討ちを画策(?)し、功労者の比企一族を滅亡させ、頼家暗殺を指示(?)したあと、無実の畠山重忠を追討し、最後は牧の方の色香に惑わされての失態。
このように、時政の通知表は学年を重ねるごとに、「よくできました」が減り、最後は「がんばろう」のひと言さえ消えたのでした。保護者欄には〈狡猾で権力欲が強く、愛欲に溺れた末の“卒業”ですね〉という辛辣なコメントが書かれそうです。
ただ、1185年の通知表は、二重の花マルでした。頼朝の名代として上洛。朝廷に守護・地頭の設置を認めさせ、「1185(イイハコ)つくろう鎌倉幕府」の暗記法を提供してくれたからです。加えて、政子と義時を育てた親であることを忘れてはなりません。
▶史上最強の姉をもち、全ライバルを蹴落す
北条義時
〈読み〉ほうじょう よしとき
生年 1163年
没年 1224年
出身 伊豆国
教室ではあまり目立たなかった。「何もしない人」だった。でも、振り返ると、学級委員長からはいつも頼られていたし、みんなからも一目置かれていた。気がつくと、生徒会の会長になっていた――。
そんな義時は高学年になるまで、すなわち1205年に父・時政を追放して幕府の執権になるまで、江間小四郎(四郎)と名乗っていました。
小四郎は学級委員長こと初代「鎌倉殿」頼朝からの信頼が厚く、頼朝の寝所の警固役にも選ばれたほどでした。頼朝が亡くなると、13人合議制のメンバーにも選出。そこからは大江広元のサポートを受けながら、姉・北条政子と二人三脚で、激動の“仁義なき戦い・鎌倉死闘編”を乗り切っていきました。
義時は策略に溺れた父・時政と違い、年齢を重ねるごとにプラスポイントを増やしてきました。梶原景時や比企能員らが消えたあと、最大のライバル和田義盛も、巧みな挑発行為によって滅ぼし、鎌倉死闘編の〝勝ち組〟になったのです。
クライマックスは、1221年の承久の乱でしょう。義時は上皇軍を破り、鎌倉幕府の支配地域を西国まで拡大しました。“国立京都学校”の通知表は最低評価ですが、当然、“私立鎌倉学校”の通知表は最高評価です。
ただし先生によっては、乱後の処理の仕方に最高点をあたえるかもしれません。乱に勝った義時は、朝廷から奪った土地を御家人に恩賞として配分しました。しかし、西国に地頭として移住した御家人と現地の領主のあいだで、取り分などをめぐる争いが頻発したのです。そこで義時はそれぞれの分配比率を定め、大田文という土地台帳をつくって、いざこざを解消させたのでした。乱の後始末もきっちりこなす、いぶし銀の高得点です。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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