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富山県魚津町「米騒動は誤解されている」
■政府よりも問題を解決した〝民間の力〞ーー米騒動の教訓
民間の力には、産業を元気にしたり、国民が生活の糧を得る雇用を生み出したりする以外にも重要な役割があります。民間には、その時々の社会的な問題を解決する力があるということです。おしなべて経済的に一定水準を超えて豊かになっている現代よりも分かりやすい、戦前の例を挙げてみましょう。
第一次世界大戦中の大正7年(1918)7月23三日、富山県魚津町で漁民のおかみさんたちが米価の高騰に声をあげました。これがきっかけとなって、全国に米騒動が広がりました。時の政権、陸軍大将の寺内正毅を首班とする内閣が倒れた原因のひとつとなった大きな事件です。
歴史の教科書では、ロシア革命に対して列強各国とともにシベリアへ出兵するとの噂を受けて米の買い占めが起こり、不当な米価高騰に対する民衆蜂起が広がったという文脈で教えられることが多いようです。
一揆や暴動のようなイメージで語られてきた大正7年の米騒動は、近年になって実情はもっと違うのではないだろうかという見直しがされてきています。米騒動が始まった魚津の人たちがクラウドファンディングで資金を集め、言い伝えの取材や資料の調査をまとめた映画『百年の蔵』という映画も公開されました。
こうした社会的な事件は、教科書などで階級闘争や資本主義の矛盾、中央集権に対する民衆蜂起といった文脈で語られがちです。こうした視点での歴史観をマルクス史観と言います。とかく悪役視されるのが商社や銀行のような資本家で、このような社会的な問題は「行き過ぎた資本主義」などと解説されたりします。
現在でも企業が不当な利益を取っているから、労働者の賃金が上がらないという主張はよく聞かれます。本当にそうでしょうか。
大正時代の米騒動に話を戻すと、実際には需要と供給のバランスが崩れて起きた事件です。米騒動の起きる直前、日本国内では例年の豊作で米価は下がっていました。米の値段が高騰したのは、1917年からの不作によります。
当時は現代と比べると食糧生産に不安定なところがありました。農業技術は発展途上ですし、海外からの米の輸入も行われていました。そして、1917年から1918年にかけての時期は、インドやビルマ(現ミャンマー)、タイといった海外の生産地でも凶作や不作だったのです。
さらに、国際的な情勢では、当時は第一次世界大戦末期です。日本は海外領の朝鮮や台湾から安定的に米を輸送することができていましたが、欧州の国々では物資不足が深刻です。イギリスやフランスの植民地だったアジア地域でも、不作に加えて他国への輸出よりも本国への物資供給が優先されました。日本では国内生産と輸入の両方が鈍化してしまい、米の価格が急激に高騰したのです。
この頃は国内産業の工業化が進み、都市部を中心に生活水準が向上していった時代でした。第一次世界大戦で欧州が戦場になる中、直接戦火に見舞われることのなかった日本では欧州からの輸入ができなくなったことから造船や鉄鋼、化学工業などが大きく成長したのです。これにより日本の産業構造も大きな変化を受け、工場労働者は倍増、都市部への人口集中が起こりました。