都市部の低所得労働者が食べていたのは「残飯」
大正時代から昭和にかけて、都市部の低所得労働者が食べていたのは残飯です。当時は軍や弁当屋、劇場、百貨店などから出る残飯を貧しい人たちに安く売る業者があったのです。
ところが大戦景気を背景に急速な都市化が進み、都市部労働者の所得が上がっていくにつれて、彼らも白米が食べられるようになっていきました。都市部の中間層が形成されていく先駆けです。現代でもおなじみの牛丼がよく食べられるようになったのも、この時代でした。
白米の需要が拡大したところへ、世界的な不作と食糧不足による供給減がぶつかったことにより、米価は急騰しました。買い占めや売り惜しみを疑われ、マスコミに名指しで悪者扱いされた大手商社の鈴木商店が焼き打ちされる事件も起こります。
実際には、第一次世界大戦勃発当時にいちはやく船舶を押さえ、貿易部門で世界的なビジネスを展開していた鈴木商店は、政府の命を受けて海外米の輸入量を増やそうと努力していたことが分かっています。世界的な供給不足の中で何とか日本向けに米の買い付けができないかと、外交官と一緒になって外国と交渉していたのです。
米騒動に至った米価の騰貴は、需要超過に加え、自由貿易体制がうまく機能しなくなっていたことも一因です。当時は自由貿易のルールがなかったので、高い関税をかけたり、輸出を止めたりといったことが簡単にできてしまいました。第二次世界大戦以前に世界で自由貿易の傾向が強まったのは、1840年代から30年ほどの限られた間だと言われます。
それ以前は重商主義、それ以後は関税政策を利用した保護主義が幅を利かせていたからです。
現在、貿易に関する国際ルールを運用したり、各国で話し合ったりする場としてWTO(世界貿易機関)があります。貿易をめぐる各国間の紛争解決機能がうまく働かなかったり、ルールの更改が世界経済の変化に追いつかなかったりといった色々な問題が指摘されていますが、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)をはじめとする新たな仕組みも試みられています。
米騒動から得られる歴史的な教訓としては、「資本主義や資本家のせいで住民暴動が起きた」ではなく、「日本の食糧」という観点から見ても、自由貿易体制の健全な運用と維持が非常に重要なのだという本質を汲み上げる方が正しいのです。
学校で習ったことの中には、マルクス史観に偏ったものの見方をしていることが結構あります。現在、私たちは資本主義社会の中で生きているのだから、社会的な問題を考えるときには、学校で習ったことを大人になってからもう一度見直してみることも必要です。米騒動でいえば、日本の経済発展や経済成長にともなう生活水準の向上があり、その過程で世界的な米の不作が起こり、各家庭でおかみさんたちが家族に食べさせる米を手に入れるのにすごく苦労した事件、という理解になります。
ちなみに米騒動が終わったのは、騒動が始まった翌年(1919年)が豊作だったからです。不作のときと同様、日本国内だけではなく外国の生産地でも豊作でした。1920年には海外生産地で日本向けの輸出が解禁されますが、日本も豊作なので価格も下がり、輸入の必要もなくなりました。
政府は価格制限をはじめ色々な米価安定施策を打ち、どんなに高くついても商社に損失を補填する形で買い付けさせるなど、あの手この手で米を確保しようとしましたが、米価騰貴は解決できませんでした。問題の解決は、政府の施策とまったく関係なく、「豊作」という実にシンプルな要因によってもたらされたのです。だからこういうときは政府があれこれと手を突っ込むよりも、食糧生産力を高めることの方が重要なのです。