ニッカウヰスキー創業者が見せたホンモノへのこだわり
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝は、こうした状況を非常に憂(うれ)えていました。「3級ウイスキーなんてウイスキーではない」と主張し、大日本果汁は3級ウイスキーを一切つくらないと公言していたといいます。
しかしながら、3級ウイスキーの人気が高まるにつれ、高価な大日本果汁のウイスキーは敬遠され、業績は低迷しました。その状況を見かねた株主は、3級ウイスキーを出すよう政孝を説得します。さすがの政孝も、創業時に出資してくれた大恩ある株主からの要請を突っぱねることはできませんでした。
1950年、政孝は泣く泣く、3級ウイスキー「スペシャルブレンドウイスキー角びん」をリリースします。二代目社長の竹鶴威によると、このとき政孝は「限界まで原酒を入れろ。それが私の良心だ」といったとか。限界とは、限りなく5%に近づけるという意味です。品質第一主義の政孝らしい逸話です。この2年後の1952(昭和27)年、大日本果汁は「ニッカウヰスキー」に社名を変更しています。
前述のとおり、この時期の主流は3級ウイスキーでした。しかし、1級ウイスキーがまったくつくられなかったわけではありません。政孝が初の3級ウイスキーを販売したその年、寿屋は1級ウイスキー「サントリーオールド」を発売しています。実は、オールドは10年前の1940年には完成しており、角瓶の上をいく高級ウイスキーとして商品発表も済んでいました。ところが、太平洋戦争開戦の機運が高まり、国内が緊迫した状況になりつつあったため、市場に出回らなかったのです。
なお、オールド完成の2カ月前、サントリー創業者の鳥井信治郎の息子の吉太郎が31歳の若さで早逝(そうせい)しています。息子の突然の死、そして、オールドの発売中止。信治郎にとっては試練の1年でした。それから10年の月日を経てようやく日の目を見たオールドは、その後長らく、日本の社会を象徴するウイスキーとして飲み継がれることになります。
60年代に大流行…サラリーマンが好んだ「ハイボール」
1953(昭和28)年、酒税法が全面改正となります。これにより、ウイスキーをはじめとする「雑酒」から3級がなくなり、代わりに特級が設けられて図表3のようになりました。「特級ウイスキー」という響きに懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか。
1953年の酒税法改正に前後して、国内のウイスキー市場は次第に活況を呈していきました。1940年代後半から1950年代前半にかけて、焼酎や清酒メーカーがウイスキー産業に参入。地(じ)ウイスキーメーカーの笹の川酒造、東亜(とうあ)酒造も、この時期にウイスキーの生産を開始しています。
1950(昭和25)年ころには、ウイスキー製造免許を持つ企業は30社を超えていました。また、オーシャンウイスキーを発売していた大黒葡萄酒は、1952(昭和27)年にモルトウイスキー製造を開始。1955(昭和30)年には軽井沢蒸留所を創設(2012年閉鎖)しています。
さらに、1950年代にはウイスキーを気軽に飲める酒場も急増しています。1950年、東京の池袋にスタンドバーがオープンしました。看板には「トリスバー」の文字。酒はトリスとカクテルで、女性による接客はなし。さらに値段を明示するスタイルが評判を呼び、あとに続く店が続出しました。
のちに、寿屋は「酒とつまみの値段を統一し、客席に女性をはべらせない」を条件として、「寿屋の洋酒チェーン・バー」を展開しています。大黒葡萄酒、ニッカウヰスキーもこれにならい、三社の名、あるいは製品名を冠した大衆向けのバーが全国に現われました。
この時期に流行していたのは、ウイスキーを炭酸水で割るハイボールです。仕事帰りにバーでハイボールを飲む。それが、当時のサラリーマンたちの活力源でした。ブームを牽引(けんいん)したトリスバーは、1960年代の最盛期には約2000店に達したといわれています。