クラフトの先駆者、秩父蒸溜所─埼玉・ベンチャー
埼玉県にある秩父蒸溜所は、ベンチャーウイスキー社が2007(平成19)年に開設した蒸留所です。地ウイスキー「ゴールデンホース」で一世を風靡(ふうび)し、「東の東亜」と呼ばれた東亜酒造と秩父蒸溜所には深いつながりがあります。
ベンチャーウイスキーを立ち上げた肥土伊知郎さんは、東亜酒造の創業者一族なのです。肥土さんはサントリーで営業職として働いたのち、東亜酒造に入社。父親のあとを継ぎ社長となります。
しかし、2004(平成16)年に他社への事業譲渡が決まり、祖父が開設した羽生蒸溜所の売却と、製品化されずに残っていたウイスキー原酒400樽相当の廃棄を迫られます。祖父の代からつくり続けてきた原酒を廃棄するなんて、肥土さんには到底受け入れられませんでした。
原酒の預け先を求めて東奔西走する肥土さんに、手を差し伸べたのが福島の笹の川酒造です。肥土さんは400樽の原酒をトラックに積み、埼玉と福島を20往復したとか。その年、肥土さんは秩父市でベンチャーウイスキーを設立。翌2005(平成17)年に、笹の川酒造に預けていた原酒を使った「イチローズモルト」をリリースします。
2005年といえば、国内のウイスキー消費量が上昇に転じる4年前。しかし肥土さんには勝算がありました。バー行脚(あんぎゃ)を続けるうちに「シングルモルトを好むコアなファンは増えている」という実感を得ていたからです。肥土さんは、コアなファンにもよろこんでもらえる個性のあるウイスキーを目指して、樽替えを実施しました。
樽替えとは、原酒を別の樽に詰め替えることです。ワインやブランデー、シェリー酒の空き樽に詰め替え、原酒にワインやブランデー、シェリーの風味を付与しました。さらに、樽替えした原酒はあえてブレンドせずに製品化。こうして生まれたイチローズモルトは次第に評判を呼び、また、2007年のワールド・ウイスキー・アワード(WWA)のジャパニーズ部門で世界最優秀賞を受賞したこともあって、ファンを少しずつ、しかし確実に増やしていきました。
とはいえ、原酒のストックは400樽しかなく、製品化を続ければいずれなくなるのは明らかです。祖父、父と守ってきたウイスキーづくりをここで絶やしてはいけない──。そんな使命感から、肥土さんは蒸留所の開設を決意します。
私が肥土さんから蒸留所開設の夢を聞いたのは、2006(平成18)年ころだったと記憶しています。大手でさえ、原酒の仕込み量をしぼってなんとか耐え忍んでいた時期です。ウイスキー事業を興すのに、これほど不向きなタイミングもないでしょう。ウイスキーの蒸留所を立ち上げるなんて、正直、無謀すぎます。私は肥土さんにそう伝えましたし、肥土さんに夢を打ち明けられたほかの人たちも、同じようなリアクションだったに違いありません。それでも肥土さんの決意は揺るぎませんでした。
秩父市の工業団地の一画を県から借り受け、秩父蒸溜所を建設。2008(平成20)年2月から蒸留をスタートしたのです。2011(平成23)年、秩父蒸溜所の原酒を使った「秩父 ザ・ファースト」が誕生。全7400本は、発売日のうちに完売しました。以降の秩父蒸溜所の快進撃は改めて書くまでもないほど、多数のメディアで取り上げられています。
秩父蒸溜所は、その革新的な取り組みでも知られています。地元産の大麦を使ったり、発酵槽の材に伝統的なオレゴンパインではなくミズナラ材を用いたり、自社で製樽を手がけたりと、数え上げればきりがありません。「次はどんなチャレンジを見せてくれるのだろう」とワクワクさせてくれるところも、秩父蒸溜所の魅力の一つかもしれません。
2019年には第二蒸溜所が始動。第二蒸溜所では、肥土さんが「以前からやってみたいと思っていた」と語る、直火蒸留が行なわれています。現在のクラフトウイスキーブームは、後世に語り継がれるべきエポックメイキングな出来事です。そして、その端緒を開いたのが肥土さん率いる秩父蒸溜所なのです。肥土さんの存在がなければ、国内のクラフトウイスキーの開花は、ずっと遅れたに違いありません。