スコッチならば、モルトウイスキーのはず
ペリーが持ち込んだスコッチウイスキーとアメリカンウイスキーの銘柄について考察してみます。
まずはスコッチウイスキーから。現在、スコッチの消費量のおよそ9割をブレンデッドウイスキーが占めています。しかし、ペリーが持ち込んだのはブレンデッドではありません。グレーンウイスキー(トウモロコシや小麦、ライ麦など大麦麦芽意外の穀物も使用)とモルトウイスキー(大麦麦芽のみを原料に使用)を混合したブレンデッドウイスキーが登場するのは1860年以降のこと。1852年にアメリカを出発したペリー一行がブレンデッドを船に積むのは不可能です。
つまり、日本人に振る舞ったスコッチは、ブレンデッドが誕生する前に飲まれていたモルトウイスキーということになります。さて、そのモルトウイスキーの銘柄はなんだったのでしょうか。文献がないため憶測になりますが、グレンリベットのウイスキーだった可能性が高いと、私は考えています。
ペリーは、どのような航路で日本にたどり着いたのか
私がそう考える理由は、ペリー一行の航路にあります。アメリカを出発したペリー一行がどのような航路で日本にたどり着いたのか、皆さんは考えたことがありますか。彼らが出発したノーフォーク軍港はアメリカの東海岸にあります。私はてっきり、ノーフォーク軍港から南下して北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の間にあるパナマ運河を通り、太平洋を横断して日本に来たものだと思っていました。
ところが、実際はそうではありませんでした。パナマ運河の開通は1914年。ペリーたちは北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の間を通ることができなかったのです。また、南アメリカ大陸はそのころ発展途上で、南アメリカ大陸をぐるっと回って太平洋に出る航路を選んだ場合は、補給の心配がありました。つまり、ペリー一行は大西洋を横断するほかなかったのです。
ノーフォーク軍港を出た船団は大西洋を横断し、アフリカ大陸の西側を南下(このころはスエズ運河もありません)。途中、セントヘレナ島、ケープタウンなどに寄港しながらインド洋に出て、セイロン、シンガポール、香港、上海を経由して琉球にたどり着いています。ペリー一行が、スコッチのモルトウイスキーをアメリカで積み込んだとは考えられません。当時の世界情勢や時代背景を踏まえると、そのころ、アメリカにスコッチのモルトウイスキーが出回っていた可能性は非常に低いからです。
可能性があるとしたら香港でしょう。このころの香港にはヨーロッパの商社がたくさんありました。そのなかで最も規模が大きかったのがジャーディン・マセソン商会です。スコットランド人のウィリアムズ・ジャーディンとジェームズ・マセソンが1832年に設立した同商会は、茶や生糸(きいと)の買いつけ、アヘンの密貿易などで大きな利益を出し、香港のほか、上海などアジアにも支店を展開していました。
ちなみに、長崎のグラバー邸でおなじみのトーマス・グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の元従業員です。スコットランド出身のグラバーは、1859年に上海でジャーディン・マセソン商会に入社。同年9月に長崎に渡り、同商会の長崎代理店として「グラバー商会」を設立しました。
話を元に戻しましょう。二人のスコットランド人が興したジャーディン・マセソン商会は、当然、本国スコットランドから香港へとウイスキーを輸入していたはずです。そして、このころスコットランドでたいそう評判となっていたウイスキーがあります。それが、エディンバラの酒商アンドリュー・アッシャーがソロエージェントとなっていた〝スミスのグレンリベット〟、今のザ・グレンリベットです。スミスというのはグレンリベット蒸留所の創業者、ジョージ・スミスのことです。