「親を見捨てるわけじゃないけど」…娘の選択
転機になったのは、会社の健康診断でした。奈緒さんは医師から、慢性的な睡眠不足とストレスを指摘されたのです。
「このままだと、あなた自身が先に倒れますよ」
その言葉は、奈緒さんにとって想像以上に重く響きました。これまで母のために時間も体力も使うのが当たり前になっていましたが、もし自分が体調を崩せば、母を支える人はいなくなります。母を守るために頑張っているつもりが、結果的に共倒れになるかもしれない。その現実を初めて正面から突きつけられたような気がしました。
そこで奈緒さんは、これまで避けてきた外部の支援について調べ始めます。地域包括支援センターを訪ねると、介護保険サービスだけでなく、見守り事業や配食サービス、緊急通報システムなど、高齢者の生活を支える仕組みが数多く存在することを知りました。
厚生労働省の介護保険制度では、要支援・要介護状態になる前から利用できる地域支援事業が整備されています。また自治体によっては、高齢者の孤立防止や生活支援を目的とした独自の見守りサービスも実施されています。
奈緒さんは、それまで「自分がやらなければ誰もやってくれない」と思い込んでいました。しかし実際には、家族だけに負担を集中させないための制度が用意されていたのです。
その後、奈緒さんは数ヵ月をかけて準備を進めました。母の生活圏の中で利用できるサービスを確認し、近隣に住む親戚にも状況を説明しました。そして何度も悩んだ末、職場に近い場所へ転居する決断を下します。
実家から電車で20分ほどの距離です。決して遠方へ行くわけではありません。しかし同居を解消するという事実は、奈緒さんにとって大きな決断でした。
引っ越し前夜、奈緒さんは居間で母と向き合いました。
「ごめん、もう支えきれない」
突然の言葉に、和子さんは何も返しませんでした。奈緒さんは言葉を選びながら続けます。
「お母さんを見捨てるわけじゃないの。でも、このままだと私も苦しくなってしまう。仕事も続けられなくなるかもしれないし、私自身の生活も立ち行かなくなると思う」
長い沈黙のあと、和子さんは小さく息を吐きました。
「そうよね。私、あなたがいて当たり前だと思っていたのかもしれない」
奈緒さんは、その言葉を聞いた瞬間に涙がこぼれそうになったといいます。母は反対すると思っていました。責められるかもしれないとも考えていました。しかし実際には、母もまた娘に負担をかけていることをどこかで感じていたのでした。
引っ越し当日、奈緒さんは強い罪悪感に襲われました。荷物を運び出すたびに、「本当にこれでよかったのだろうか」という思いが頭をよぎります。玄関先で手を振る母の姿を見たときには、車に乗り込むことさえためらいました。
