孫文を中心に、革命派も台頭…「中華民国」が成立
「光緒新政」により科挙が廃止に
話を中国に戻すと、1905年についに西太后は政治改革を容認しました(光緒新政※)。背景は①義和団事件での惨敗、②日露戦争における「国民国家」日本の勝利。
※ ただし、光緒帝本人は幽閉されている
科挙の廃止は、儒学的な価値観を基準に官僚を選抜するシステムを放棄したということであり、特筆すべきことですね。これにあわせて教育制度も刷新され、海外留学も奨励されました。憲法大綱の発布、国会開設の公約、内閣の組織といった改革はおおむね変法の焼き直しでした。
改革のさなかの1908年、光緒帝と西太后が1日ちがいで死去。3歳だった溥儀(宣統帝)が即位し、結果的に彼が最後の皇帝[ラストエンペラー]となります。しかし、この改革も権力者が自ら身を切る「上からの改革」であり、内容としては不十分※でした。
※ 例えば、内閣のメンバーは皇族が中心
“打倒清朝!”…孫文が「中国同盟会」を成立
「清の改革は小手先でお茶を濁し、清朝の延命を図っているだけだ。革命によって新しい共和政国家を創るしかない!」。19世紀末、清朝そのものの打倒を目指す革命派も台頭してきました。
その中心が孫文で、華僑となった兄が暮らしていたハワイで興中会を結成※。1905年には日露戦争の影響で、バラバラだった諸派をまとめて中国同盟会を成立させます。
※ 華僑からの資金援助を期待
帝国主義時代の列強がさかんに行った資本輸出の代表格が鉄道経営でした。中国の人たちが鉄道を利用して「生活が便利になった~♪」と喜んでも外資にお金を吸い取られてるわけです。そこで中国の資本家がお金を出し合って鉄道の利権を外国資本から買い取る運動が盛り上がりました(利権回収運動)。
しかし、ここに清朝政府が冷や水を浴びせます。中国資本になった鉄道を取り上げて、外国からの借金の担保にあてようとしたんです(近代化の資金源が増税だけではまかなえず、外国からの借款に頼った事情があります)。
苦心して買い戻した鉄道を奪われた資本家は怒り(四川暴動)、政府は湖北新軍に鎮圧を命じました。しかし新軍の中には「隠れ革命派※」がうじゃうじゃいました。ミイラ取りがミイラになって新軍が武昌で蜂起し、革命が勃発します。
※ 民族資本家の子弟や、外国留学経験者など
孫文が袁世凱と結んだ「密約」、驚きの内容
革命の報を聞いた孫文は亡命先から帰国し、南京を都として中華民国の成立を宣言しました。ここで清が出した切り札が袁世凱※。
※ 満州人ではなく漢人
戊戌の政変の際、変法派の動きを保守派に密告したことで西太后の信頼を得て、李鴻章の死後は国内最強の北洋軍を受け継ぎましたが、西太后が死ぬと後ろ盾を失って失脚(光緒帝の弟が溥儀の後見人として実権を握ったのですが、彼がかつて兄を失脚に追い込んだ袁世凱を恨んだため)。
しかし革命の火が中国全体に広がると、政府も袁世凱に頼るしかなくなり、現場に復帰させて中華民国を叩くよう命じます。
ところが袁世凱は冷めた目で情勢を分析し、もはや清朝は死に体にあると判断。一方の孫文ですが、まだまだ中華民国は準備不足で清朝と戦う軍隊がない。
そこで両者が接近し、なんと「袁世凱が清を滅ぼし、見返りとして孫文は臨時大総統の地位を袁世凱に譲る」という密約を結びました。裏切った袁世凱に圧力をかけられた溥儀は6歳にして退位、清朝は滅亡しました。
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