徹底してフランス排除を目指したドイツの「ビスマルク外交」
1873年、ドイツはロシアとオーストリアとの間で三帝同盟を結成しました(オーストリアはドイツと同じ民族であり、後々までドイツにとっての盟友であり続けます)。
しかし、ロシアが露土戦争でバルカン半島に勢力拡大させると、インド航路を守りたいイギリスと、バルカン半島を狙っていたオーストリアが猛反発。
ビスマルクはなんとか同盟国であるオーストリアとロシアの関係を取り持とうとベルリン会議を開きますが、結局ロシアは南下をつぶされてしまい不満を増大させ、同盟は機能不全に…。
ビスマルクは次の一手をうち、ドイツとオーストリアを軸にイタリアを引き込み三国同盟を成立させました※。さらにロシアをフリーにしておきたくないビスマルクは、ロシアと個別に再保障条約を結びます。まさにVIP待遇ですね。
※ 狙っていたチュニジアを奪われた、フランスへの怒りが背景
[図表1]がビスマルク外交の最終形です。ロシアとオーストリアが対立しているものの、ドイツがロシアをうまく取り込んでフランスを孤立させています。
なお当時のイギリスは、アメリカやドイツの追い上げをうけつつも覇権を維持し、大陸の対立に巻き込まれるのを嫌い孤高を保っていました(「光栄ある孤立」)。
工業力も成長…資本家はビスマルク政府に「植民地獲得」を求める
ドイツの工業力は順調に成長し、イギリスに肩を並べるまでになりました。すると資本家たちは政府に対し、製品市場や資本投下先として植民地を求めるように。ビスマルクはイギリスを刺激するのを避けるため※植民地獲得には積極的でなかったんですが、国内から突き上げをくらっちゃったんですね。
※ ベルリン会議でもイギリスの利害を尊重した
ヴィルヘルム2世が即位…一転して「植民地拡大」の膨張政策へ
そんな折、新皇帝ヴィルヘルム2世が即位しました。派手好きな彼は、祖父ほど年齢が離れているビスマルクの「弱腰」を批判し、資本家の支持もあって「イギリスなどに遠慮する必要はない!」と、植民地拡大を打ち出します。
方針の違いからビスマルクは辞職…。ここからドイツは方針転換し、膨張政策がライバルのフランスのみならず、ロシアやイギリスの警戒も招くことになります。
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