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なぜ家康は浜松城に籠城しなかったのか
■三河武士の面子と意地
戦雲急を告げたのは、12月21日の夜だった。家康が放っていた斥候が戻ってきて、
「武田軍は、明日、大挙して祝田、井伊谷 (いずれも浜松市)へ入り、東三河(愛知県東部)へ向かおうとしている模様であります」
と報告。家康は決断を迫られたのである。
家康は、諸将を集めて緊急軍議を開くと、開口一番、
「城を出て要撃する」
と宣言した。要撃とは「待ち伏せ」である。
家臣たちは、「要撃など、とんでもない」と次々に反対を表明した。
「敵衆は3万を超えており、戦力に圧倒的な差があります。いくら殿が野戦を得意でも、完敗します」
「信玄は軍事に長けています。どんな突拍子もない策を繰り出してくるか、わかったものではありません」
「信玄の究極の目的は上洛であって、われらを滅ぼすことではない。だから、みだりに戦うべきではなく、籠城すべきです」
日頃は家臣の諫言を喜んで受け入れる家康だったが、この日はそうではなかった。諸将の考えを激しい口調で全否定し、信長の忠告をも無視した。
織田の諸将が、信長からの伝言として家康に申し伝えたのは、次のようなことだった。
「わが殿も籠城すべきと申されています。信玄がたとえ戦いを挑んで来ようとも、断じて兵を出してはなりませぬ、と」
家康の決断を決定的に左右したのは、三河武士としての面子と意地だった。
家康は、こういったのである。
「敵がわが領土を蹂躙して通り過ぎていくのを、息をひそめて見送り、一矢も報いないとは何事か。ただ城に潜んでいて、どこが三河武士ぞ。勝敗は、天にあり、衆寡にあらず(兵力の問題ではない)」
このときの家康のもっと詳しい発言内容は、江戸時代中期の山鹿流兵法家佐久間立斎の『東遷基業』によれば、次のようだったという。
「どんなに武田が猛勢だからといって、城下を蹂躙して進軍していくのを手を組んで黙って眺めている理由などない。これ以上の弓矢の恥辱はない。後日、敵に枕の上を踏み越されたのに、起き上がりもしなかった臆病者と世間の笑いものになることこそ、後代までの恥辱だ。勝敗は天にあり。とにもかくにも、戦をしないでおられようか」
城主にそこまでいわれたら、家臣たちは従うしかない。
「ならば、天下無双のわれら三河武士、殿のために三方ヶ原で正面切って堂々と戦い、白黒つけようではないか」
だがこのとき、家康はたった2時間の戦闘で300人もの戦死者を出すことになろうなどとは予想だにしなかったのである。
大軍と小軍が正面きってぶつかり合えば、勝敗は戦う前から見えている。織田信長が少数の兵で今川義元の首を取れたのは、奇襲攻撃によってである。野戦で真正面から対決していたら、ものの見事に完敗していただろう。
だが、そのときの家康には、そこまで考える余裕がなかったのかもしれない。若さという名の経験不足が邪魔をしたのだろうか。家康31歳。
城島 明彦
作家
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