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武田信玄「百戦錬磨の知将の手練手管」
■家康31歳の大決断「籠城か、野戦か」
三方ヶ原の戦いで家康に突き付けられたのは、「籠城か、野戦か」という二者択一の大決断だった。結論から先にいうと、家康は、何とかして「野戦」に引きずり出そうとする信玄の作戦を読むことができず、信長や家臣が主張する「籠城」に耳を傾けようとしないで、独断で「野戦」を選択し、死にかけたのである。そうなった経緯をこれから述べたい。
信玄が率いる本軍は、1572(元亀3)年10月7日に駿河から遠江に入り、山縣昌景率いる別動隊は三河東部を南下縦断して遠江に入った。
武田軍がまず陥いれたのは、家康の支城「二俣城」である。二俣城は、家康の居城浜松城まで20 キロしか離れていない地点にあった。
遠江に侵攻して6日後の10月13日、家康は、信頼する大久保忠佐、本多忠勝、内藤信成の3武将に偵察を命じ、3000の兵をつけて送り出した。
3人はやがて戻ってきて敵情報告をしたが、意見が異なっていた。大久保と本多は、すぐにでも戦う意思を示したが、内藤は反対し、家康にこう告げたのである。
「衆寡敵せず(少人数は大人数にかなわない)と申します。今、信玄の大軍と交戦するのは不利です。織田の援軍到着を待って戦うべきで、ひとまず兵を収めるのが最良の策かと存じます」
家康が大きく頷くと、大久保や本多は「交戦案」を撤回し、内藤の「撤兵案」を受け入れた。
家康が信長に援軍を要請したのは、11月に入ってからだった。
信長は援軍を送ることを了承したが、次のような策を家康に伝えた。
「野戦は控えられよ。ただちに浜松城を引き払い、岡崎城へ戻って籠城し、われらが援軍を待たれよ」
信長は、平手汎秀、滝川一益、佐久間信盛らの重臣に3000の兵をつけて送り出したが、そのときに「勝てる相手ではない。まともに戦うな」と因果を含めた。そのせいで、合戦では信長軍の兵士のやる気のなさを武田軍に見透かされ、こてんぱんにやられることになる。
信長の援軍は、東海道を進軍し、11月下旬にようやく浜松に着いた。
一方、信玄は、信長の援軍が浜松城に入ったとの知らせを受け、さらに、後続の援軍も岡崎山中から東下しつつあることを知ると、思案し、こう決断した。
「やみくもに浜松城を総攻撃して兵を失うよりは、押さえの軍勢のみを張りつかせて動きを封じ、本隊は本来の目的である上洛を果たす方が得策だが、こちらが通り過ぎるのを家康が黙って見送るわけはない。籠城か、野戦か。籠城されたら攻略するのに日数もかかるし、そこへ信長の第2弾の援軍が大挙してやって来て、背後から襲われたら戦死者が出る。だが家康は、籠城戦法は採らずに合戦に打って出る可能性が高い。そうなったら100パーセント勝てる。籠城されて手間どるよりは、家康を刺激して野戦に誘い出し、一気に壊滅させる。そうする方が時間の無駄が省ける」
数は力なりで、信玄には大軍を率いている余裕があった。
信玄は、浜松城へは向かわず、方向転換して三方ヶ原方面へ向かったのである。それが武田信玄という稀代の“百戦練磨の知将の手練手管”というものだった。
そんなこととは夢にも思わなかった家康は、まんまと信玄の術中にはまった。二俣城を陥落させた武田軍は、破竹の勢いで浜松城に向かって直進してくるとしか思わず、まさか途中で進路を変え、浜松城を素通りしていくなどという策は読めなかったのである。