桶狭間の戦いで敗れた今川家の惨状
■昨日の敵は今日の友、信長と同盟
今川義元が戦死したことで、元康は人質から解放され、岡崎城へ復帰できたが、今川家そのものが滅んだわけではない。嫡子の氏真が後を継いでいる。だが、影響力は目に見えて落ちた。
後世、徳川家康の忠義心は「愚直」と評されるが、独立してもなお、氏真を支えようとした姿勢にもうかがえた。しかし、氏真に見切りをつけるときがきた。
人質を脱して独立し、三河の平定に着手した元康だったが、三河を平定する悲願を実現するには、「弱小領主」という泣きどころを何とかしなければならない。三河はまだ3分の1しか平定できていない。
「麻のように乱れた」と比喩されることが多い戦国の世だ。油断すれば、隣国の城主に領土も家臣も民も奪われる。敵対勢力は少なければ少ないほどよい。そう考えたのは、元康だけではなかった。織田信長も同じことを考えていた。
仲介者を通じて、同盟を結ばないかといってきたのだ。仲介者の名は水野信元。桶狭間の戦いで今川義元が殺されたときに、「逃げるように」と密使を寄こした伯父である。
元康は、家臣を集めて協議した。そのとき議題に上ったのは、今川氏真への激しい批判だった。氏真に、「弔い合戦をせよ」「お家を再興せよ」と、いくらいっても聞く耳を持たず、酒びたり、遊興三昧の日々を送っているのである。
「命がけで大高城への兵糧入れを敢行したのに、いまだに褒める言葉すらない」
「義元が討ち死にした後も、駿遠参(駿河・遠江・三河の略称)の三国の将兵は皆、氏真についているのに、当の氏真は、織田信長に復讐戦を挑む気力すらない。そんな暗愚の将のために命をかけたくない。見切りどきではないか」
「桶狭間では敵対したが、信長は隣国。和睦した方がよい」
和睦するにしても、懸念材料がないわけではなかった。
「御台様(築山殿)、若君(長男竹千代)、姫君(長女亀姫)は、まだ今川家の人質として駿府に残っておられる。その身に万が一のことがないとは断言できない。それが気がかりだ」
案の定、同盟話を漏れ聞いた氏真は激怒し、使者を送った。
「織田氏と和睦しようとするとは何事か。われと絶つなら、われがもとにいる関口氏(築山殿)、並びに竹千代を殺害し、大軍を率いて三河に攻め込むぞ」
そのようなことを口上した使者に元康は伝えた。
「この元康、今こうして本国に戻っているが、多年にわたって今川家から受けた恩義を忘れてはいない。しかし、元康、いまだ微力である。隣国の尾張と和を結ばなければ、枕を高くして眠ることができない。だから、和を結ぼうとするのだ。今川氏に叛いて織田氏と講和するのではない」
■人質交換で妻子を取り戻す
今川家の一族は、桶狭間の戦いで敗れたことで求心力を失い、次々と松平家に臣従したが、唯一、今川家に忠誠を誓って孤立していた城が西郡(今の蒲郡)にあった。上之郷城である。
近在には不相城、柏原城もあった。上之郷城は、15世紀ごろから鵜殿家(上之郷鵜殿家)が城主を務め、その頃の城主は長照。長照の母は義元の妹で、氏真とは従兄弟。父の長持も健在で、長照の子の氏長・氏次兄弟もいた。
信長と清須同盟を結んだ翌月の1562(永禄5)年2月、元康は、みずから兵を率いて出陣し、久松俊勝と松井忠次に城を攻めさせた。久松俊勝は、元康の生母お大の方の再婚相手、つまり義理の父である。
元康は、城主の鵜殿長照と弟の長忠を討ち死にさせたが、氏長と氏次は今川義元の孫にあたり、利用価値が高いと踏んだ元康は、2人を殺さずに生け捕った。奪い取った上之郷城の新城主には久松俊勝をあてた。
今川家から独立したといっても、まだ完全な形では独立できていない。正室、嫡男、長女が人質として残っているからだ。
元康は人質交換を提案。石川数正が駿府に行き、氏真を説得。氏真がその申し出を受け、人質交換が行われた。
関口義広の庇護を得て、築山殿、竹千代、亀姫を鵜殿の2人の子と交換し、岡崎へ帰還した。
上之郷城の戦いで大活躍した軍団にも注目だ。家臣松井忠次とつながりがあった伊賀・甲賀の忍者を率いる服部半蔵も、そのなかの1人だった。半蔵は、『服部半蔵正成譜』によれば、16歳で宇土城の夜討ちに参戦し、伊賀忍者60~70人を率いて城中に侵入、戦果を上げて、元康から持槍を賜ったという。
元康は、上之郷城の戦いのときには思いもしなかっただろうが、忍者と気持ちを通じさせたことが、のちのち役に立った。たとえば、20年後の1582(天正10)年6月に突発した本能寺の変では、自身も命を狙われたために、生きて帰れる保証のなかった「伊賀越え」を成功させた。その意味では、桶狭間の戦い後のいくつかの小さな戦いも重要である。