自分の間違いを認めず、人のせいにする子ども
娘のソフィーが4歳の誕生日を迎えて間もない、ある日の午後。私は夫のフィリップとともに、マサチューセッツ州ブルックリンの幼稚園で保護者面談に出席していました。子どもサイズの椅子にぎこちなく腰を収めます。1時間前は勤務先の学校で、保護者と面談をしていました。今度は自分が保護者の側です。
「娘さんは間違うのを嫌がります」と1人目の先生が言いました。白髪の上品な女性です。「子どもにはよくあることです。何事も自分の力で、完璧にやりたいんですね」
「ただ、間違いを人のせいにしてしまいます」と2人目の先生が言いました。「そのせいで友情にひびが入っています。幼稚園では、間違えたらどうするべきか、よく言い聞かせているのですが…。できたら、家庭でもそうしてあげたいですね」
「家で何ができるか考えてみます」と私は言いながら、ハッとしました。確かに、思い当たる節があったのです。
その後、自ら間違いを認められるようになったワケ
多忙な勤務時間中は、その会話をあえて意識しないようにしました。夜になり、家に向かって歩いていると、土砂(どしゃ)降りの雨が降ってきました。帰宅したときには、ずぶ濡れのひどい状態でした。
「ママったら、びしょ濡れ」と、ソフィーは顔をしかめました。「傘持って行かなかったの?」
「天気予報を見なかったの」
「見なきゃダメでしょ」
靴下を脱ぎながら、思わずカチンときました。でも同時に、ひらめきました。
「それが今日のママの間違い。ソフィーは?」
「なんの話?」
「ソフィーの間違いは?」私はソフィーの目を見つめました。「今日、どんないけないことやバカなことをした?」
「私は間違えないもん」ソフィーはむっとして行ってしまいました。
しかし、夕飯のときのことです。「パパはどんな間違いをした? 教えて」ソフィーは瞳を輝かせながら言いました。
「自転車の鍵をかけ忘れたんだ」とフィリップ。「それで外に置きっぱなしにしていた」
「じゃあ盗まれちゃったの?」
「いや、たまたま大丈夫だった」と、安堵(あんど)のため息をもらします。「でも、次はちゃんと鍵を持っていくよ。で、ソフィーは? 何か間違った?」
「私は雨の日には自転車に乗らないよ」ソフィーはにっこりしました。「だから何も間違えなかった」
私は話題を変えました。ところが、翌日の夕飯の席でソフィーが尋ねました。
「パパの間違い教えて!」
フィリップは、さっさとメールを送ってしまい、あとで補足説明の電話を入れる羽目(はめ)になったことを話しました。
「見直さなかったの?」ソフィーは飛び上がりました。
「慌てていたからね。でも、明日はもっとじっくりやるよ」
「じゃあ、私の番ね」とソフィーは言うと、校庭で男の子にぶつかった話をしました。男の子は泣き出しましたが、ソフィーは謝らなかったと言います。
「どうしてぶつかったか、説明しなかったの?」私は尋ねました。
「私のせいじゃないもん」
「『押してごめんね』って言う必要はないの。でも、その子はどう思ったかしら?」
「たぶん、わざと押したと思っている」ソフィーは不満そうな顔をしました。「次はちゃんと説明する」
これはちょっとした発見でした。その会話によって、ソフィーは自責の念に駆(か)られずに間違いを認められました。間違いは誰にでもあることで、間違いを振り返れば、次はもっとうまくやれると気づきました。私に説教されたからではなく、双方向の対話を通して、自らそう気づいたのです。とことん考え、葛藤した末に、それを自分の言葉で表現したのです。
このように、考え抜き話し抜くことは、子どもの学びを何よりも深めます。考えを自分の言葉で伝えると、考えが固まり、学んだことがしっかり身につきます。自動車の仕組みを机上で学ぶより、おもちゃの車を作ったほうが、学びが身につくのと同じです。