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政子が画策「次期『鎌倉殿』は朝廷から」
■実朝、異例のスピード出世!
鎌倉幕府に話を戻しましょう。
北条政子・義時体制は盤石になりつつありました。
父の時政を追放し、最大のライバル和田義盛を倒し、鎌倉に北条姉弟の敵はいなくなりました。都で和田一族の残党が蜂起する動きもありましたが、それも鎮圧しました。
鎌倉では、御家人の不穏な動きも影を潜めました。政子・義時は御家人に向けて、「大罪を犯さない限り、所領を奪わない」という本領安堵をしっかり約束していたからです。
しかし、これで北条姉弟政権の到来となったわけではありません。鎌倉幕府のトップは、あくまで征夷大将軍・源実朝でした。
実朝は3代目「鎌倉殿」として、神社仏事復興、街道整備、御家人統制など、さまざまな政策を実行し一定の成果を挙げていました。決してひ弱な“文学青年”ではなかったのです。
朝廷との関係も良好でした。
和田合戦による鎌倉の混乱を耳にしたとき、後鳥羽上皇は、実朝の為政者としての力量に不安を抱いたかもしれません。しかし、その後の幕政が安定したことで、和歌や蹴鞠などの趣味で結びついたふたりの絆はより強くなりました。
後鳥羽上皇は実朝に朝廷の官位をあたえ、毎年のように昇進させたのです。実朝も、それを喜々として受け入れました。
〈どうも上皇は叙位任官をエサに実朝様を籠絡しようとしている〉
そう勘ぐった大江広元が、実朝を諫めたほどです。
しかし実朝は“入れ食い状態”でした。1218年には、権大納言(正三位相当)から内大臣、さらには右大臣(正・従二位相当)へと、異例のスピードで出世の階段をのぼっていったのです。
官打の匂いプンプンです。
官打とは呪詛の一種で、身の丈たけに合わない高い官位をあたえ、その身を滅ぼさせることをいいます。やはり後鳥羽上皇の策略だったのでしょうか?
これには次のような見方もあります。
〈実朝は官位に眼がくらんだのではなく、「鎌倉殿」の権威をより高めることが目的だった〉
〈上皇も、東国の安定のために、実朝に相応の地位をあたえる必要があった〉
実朝は病弱で武芸も不得手なことから、将軍としての評価は従来あまり高くありませんでした。しかし近年、それを覆す説が多く出ています。
さて、実朝が出世階段をのぼった1218年、北条政子は京にいました。頼朝と上洛して以来、四半世紀振りの都でした。
政子は実朝の世継ぎが生まれないため、次期「鎌倉殿」を朝廷から迎えようと考えていたのです。実朝自身も、自分には子ができないと思っていたようです。
交渉の窓口は、卿二位こと藤原兼子 。後鳥羽上皇の乳母で、政子と同世代でした。後鳥羽上皇からの信頼は厚く、朝廷政治に隠然たる影響力をもっていました。
還暦をすぎた者同士、「尼二位」政子と「卿二位」兼子の話は穏やかにスムーズにすすんだようです。意気投合し、候補者のリストアップ作成にまで至ったのでした。有力候補は、冷泉宮頼仁親王と六条宮雅成親王。ふたりとも後鳥羽上皇の皇子でした。
ところが、そのリストアップが反故になりそうなできごとが起こります。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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