『日本列島改造論』は91万部のベストセラー
田中政治を継承したと言われる竹下はこのように言う。
「角さんは記憶力がすごくて、全省庁の課長以上の官僚たちの名前から誕生日、記念日まで、すべて覚えていました。だけど僕にはそんな記憶力はとてもない。そこで『竹下の巻紙』と言われる、長い長い巻紙に官僚の情報を書いていました」
「角さんのすごいところは、法律をやたらに勉強していて、実に詳しく知っていたことです。33本の議員立法はもちろん史上最多記録だし、おそらく今後も破られないでしょう。池田勇人さんや佐藤栄作さんにもできなかったことです。その意味では、それまでにない新しいタイプの政治家でした」
「角さんがすごいのは、官僚機構を思いのままに使いこなしていたということです。それまで党人派の政治家は官僚の使い方が決定的に下手でした。官僚に馬鹿にされているというコンプレックスもあって、恫喝や人事で強引に従わせようとした。しかし、角さんは官僚を見事に味方につけたのです」
■『日本列島改造論』に田中角栄の考えが凝縮されている
田中政権の業績として、一般的に知られているのは日中国交正常化であろう。確かに、それによって角栄は日本史に名を刻んだ。だが、政治家としての田中角栄の本質を良くも悪くもはっきりと示しているのは、著書である『日本列島改造論』である。
『日本列島改造論』は、1972年6月17日に角栄の前の首相であった佐藤栄作が退陣表明をした3日後に発売された。自民党総裁選を翌月に控え、当然、狙いに狙ったタイミングの出版ではあるが、書籍の内容は選挙のための打ち上げ花火などでは決してなかった。この構想のもとになったのは、前述の「都市政策大綱」である。
1972年9月、首相就任後85日の角栄は、中国を訪問して毛沢東や周恩来と会談し、日中国交正常化を実現した。すでに記したように、角栄は、田中派だけでなく自民党の他派の政治家の面倒もみており、全省庁の課長以上の官僚の面倒もみていた。だから、田中内閣は、安定した長期政権になると見られていたが、わずか2年5カ月で崩壊した。
その要因の一つが『日本列島改造論』であった。
なぜなのか。「都市政策大綱」と『日本列島改造論』には3つの大きな違いがあった。まず、「大綱」では冒頭に謳っていた「都市の主人は、人間そのものである」という一文が『日本列島改造論』からは消えた。
次に「私権を制限し公共の福祉が優先する」という画期的な要素も消えた。
そして、第三に、「大綱」では「大都市に過度に集中している企業、工場を全国に分散、配置する」と抽象的にしか描かれなかった構想が、『日本列島改造論』では、重点開発地域の名前を明らかにして具体的な設計図が描かれたのだ。
さらに、人口25万人規模の地方中核都市を全国に100カ所つくるとして、その候補地を公表した。いわゆる「箇所づけ」である。
「都市政策大綱」づくりに深くかかわった秘書の早坂茂三や麓邦明などは、特に「箇所づけ」には強く反対した。
「『箇所づけ』は危険きわまりない、そんなことをしたらえらいことになる。政府が補助して開発する地域の名前が事前にわかったら、間違いなく、その地域の地価が暴騰してインフレになる」
早坂や麓はこのように主張して、角栄と喧嘩状態になった。当時、経済企画庁の官僚で角栄のブレーンだった下河辺淳も反対したようだが、角栄は「小難しい理屈ではなく、臨床医の処方箋が必要だ。『大綱』では国民はついて来ない」と言って、受け付けなかったようだ。そのことがきっかけで、麓は秘書を辞めている。
『日本列島改造論』は大きな話題となり、瞬く間に91万部という驚異的ベストセラーとなった。
田原 総一朗
ジャーナリスト
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