自民党の脅威は「エンプロイの激増」
■田中角栄の政治ビジョンの原点「都市政策大綱」
私が、田中角栄という政治家に改めて注目したのは、角栄が1968年5月に世に出した 「都市政策大綱」という論文を読んだためだった。
前年の1967年4月に行われた東京都知事選挙で、社会党と共産党が推薦する美濃部亮吉が当選し、史上初の革新都知事が誕生した。自民党は、あえて独立候補を立てずに民社党の推す松下正寿(元立教大学総長)に合流したにもかかわらずの敗北だった。
すでに京都府では、1950年から社共両党が推す蜷川虎三が府知事に連続当選していたし、沖縄でも革新勢力が推す屋良朝苗が返還前の琉球政府行政主席に、さらに1971年には大阪でも社共推薦の黒田了一が府知事に当選した。
当時の日本人口の40パーセント以上が、革新自治体の下で生活するという状況になったのだ。このことに角栄は強い危機感を抱いた。
そこで1967年、雑誌『中央公論』6月号に、当時、自民党幹事長だった角栄自身が「自民党の反省」という危機意識に満ちた論文を発表し、次のように書いている。
「人口や産業・文化が東京・大阪など太平洋側の大都市に過度に集中した結果、地価は暴騰し、住宅は不足し、交通難は日増しに激しくなり、しかも各種の公害が市民生活をむしばみ、破壊していることは明らかである。事態がこのまま推移すれば、国民生活、国民経済自体が根底から揺さぶられることになるのは早晩、避けられない。
東京・大阪はもちろん、膨張する太平洋沿岸ベルト地帯に対して、自民党がもし有効に対処できなければ、都知事選にみられた都民の欲求不満の爆発は、やがてベルト地帯住民の間にも連鎖反応をもたらすことになるだろう」
この論文の中で、角栄は自民党の脅威として「エンプロイの激増」をくり返し指摘している。エンプロイとは、会社員のことだ。第二次(製造業、建設業)と、第三次(金融、小売、サービス業)の企業に勤務する会社員や公務員の人口は、1965年には日本の全就業人口の74パーセントに達していた。そのほとんどが当時は労働組合に属しており、社会党・共産党に投票していた。
これまで自民党を支持していた農業人口がどんどん減っていき、商工サービス業などに従事する会社員となって、地方から大都市に流入している。
一方、都市部でも、これまで自民党が頼みにしていた商店主などの自営業者の割合が減り、会社員が増加の一途をたどっていた。その会社員こそが自民党にとっての脅威であり、彼らの持つ生活への不満が、革新知事や市長を生む原動力だと角栄は見ていた。