最も坂東武士らしい武士の欠点とは?
▶血気盛んな坂東武士、弓馬の腕は群を抜く
和田義盛
〈読み〉わだ よしもり
生年 1147年
没年 1213年
出身 相模国
東国ボスの成りや気質を説明するとき、だれかひとり挙げるとすれば、和田義盛でしょう。最も坂東武士らしい武士といわれます。三浦義明の孫ですが、和田の地を所領にしていたため、和田姓を名乗っていました。
頼朝からは、下河辺行平と並ぶ弓取り名人として高く評価されていました。1180年、鎌倉に侍所を設置したとき、その別当(長官)に選ばれたのが和田義盛でした。同じ三浦ファミリーで、義盛より20歳も年上の三浦義澄や安達盛長らの重鎮をさしおいての抜擢でした。
というより、義盛はかねてから侍所別当の職を所望していて、みずから手を挙げたのでした。頼朝はこうした義盛の“前傾姿勢”も評価したのでしょう。
「体育」の点数は、三浦義澄を上回る高評価をあたえられます。ただ、“長距離走”は苦手でした。
源平合戦で範頼軍の指揮官として西へ西へとすすんだとき、長期の戦いに嫌気が差した模様。ひそかに鎌倉に帰ろうとしたため、頼朝から叱責されました。そのあと、壇ノ浦の戦いでは矢を放ちまくり、汚名を返上しましたが。
先生によっては、保護者欄に〈真っ直ぐな性格だけど、何かが抜けていますね。でも、運動ができるし、イジられキャラでもあるので、みんなの人気者ですよ〉というコメントを書くかもしれません。「13人」のメンバーに選ばれたのも、そんな和田義盛の人柄が大きかったのでしょう。
ただ、「体育」以外の点数は、並以下でした。特に「社会」を見る眼が欠けていました。ケンカは強いのですが、何かと調子に乗りやすい。相手に挑発されると、すぐカッとなる。息子も思慮分別に欠けていました。こうした姿勢が一族の破滅をもたらすことになります。
▶北条に並ぶ有力者ながら、脇の甘さから滅亡
比企能員
〈読み〉ひき よしかず
生年 1140年代?
没年 1203年
出身 武蔵国
流人時代の初代「鎌倉殿」頼朝を支えた比企尼の甥いっ子にあたります。
源平合戦や奥州征伐にも従軍し、頼朝にずっと近臣として仕えました。奥州征伐の翌1190年、藤原泰衡(秀衡の子)の(元)家臣・大河兼任が乱を起こすと、千葉常胤らとともに事態の収拾にあたりました。奥州藤原氏の残党を討ち、朝廷から右衛門の尉の官位をあたえられています。
1198年には、娘の若狭局を2代目「鎌倉殿」頼家に嫁がせ、源氏との関係を深めました。さらにふたりのあいだに嫡男・一幡が生まれたことで、比企能員は外戚という地位を獲得しました。しかし、それがのちに“禍”へと転じます。
翌1199年、頼朝が急死。千幡(実朝)を次期「鎌倉殿」に推す北条時政と対立し、乱へと発展したのでした。歴史の教科書では、時政殺害を謀った比企能員の乱という扱いになっていますが、実態は“その逆”というのが定説になりつつあります。
比企能員が糾弾されるとすれば、その脇の甘さでしょう。禍転じて福となすどころか、一族の破滅をもたらしたからです。保護者欄には、どの先生も〈学級委員長を助けて、よく頑張りました。でも、お人好しの性格が徒あだになり、油断しすぎでしたね。おばさまが泣いてますよ〉と書くに違いありません。
実際、おばであり養母の比企尼は草葉の陰で涙を流していることでしょう。比企尼が支援したのは頼朝だけではありません。長女の丹後内侍は、13人合議制のメンバー安達盛長に嫁いでおり、孫にあたる姫の前は北条義時に見初められ、頼朝の仲立ちで正室になっていました。
そんな関係もすべて崩れてしまったのです。
大迫 秀樹
編集 執筆業
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