『めぞん一刻』で描かれた幸せな瞬間
漫画家・高橋留美子の『めぞん一刻』は、傑作である。ぼろアパートに管理人としてやってきた若い未亡人・響子と住人の浪人生・五代の恋愛物語だが、一見ドタバタ劇のようで、登場人物のキャラクターの多彩さや心の動きがよく描かれ、最近のファンタジー物語のような、現実にあり得ないような設定がない。
その中に印象的な場面がある。響子とちょっとしたいさかいを起こした五代は、たまたまアパートに設置されたピンク電話から管理人室に電話し、誤解を解こうとする。ピンク電話は管理人室の前にあるのだから、壁一つ向こうの彼女に電話していることになる。
ただ、物理的距離はこの際、関係ない。いさかいによって広がった心理的な距離を電話によって乗り越えた。その飛躍が、魔法のホーキに乗ったかのような美しいジャンプに、私には感じられたのである。
『めぞん一刻』は、主人公のみならず脇役との関係も巧みに表現している。脇役たちは常に五代や響子の意図を挫くように、邪魔するように振る舞う。しかし、それらは単なる意地悪ではない。己の思いがすべて通るものではないと知らせるためであり、また2人の間がより近づくように後押しをするものである。
人の心は、自我という皮に包まれた風船のようなもので、思いには制限がかかり、我を通せる限界がある。それを知らしめるのが、他者という大気圧である。他者との関係が希薄化すれば、自我は肥大化しかねない。五代の思いは、いつも挫折し、外圧に屈してゆくが、一瞬ピンク電話によって思いが障害を乗り越えて届いたことが、すこぶる幸せな瞬間を作り出したのかもしれない。ただそのためには、そこに至るまでの、生身のやり取りが不可欠である。
インターネットには、かかる大気圧に代わるものがない。大気圧は、人と人との交わりの中で生じる。それはひどく面倒で、時間もかかり、今時は受けが悪い。ITが世を席巻しているのも、面倒なプロセスをできるだけ省略することで成り立つ技術だからである。メールやSNSでの交流にも、血の通う触れ合いはなく、面倒ならスイッチ一つで消すこともできる。
思いに制限を加えるものがないネット空間は、自我を増幅し続け、まるで世界を支配する神のような心境に至らしめるのではないか。ゲーム依存も、すべて一人で決定して好きなだけ繰り返してゆけるところに快楽があるのであろう。そこに達成感はあるにしても、他者からの批判や注意、意地悪もなければ、愛もない。
リアルな場面では、必ず邪魔する奴が現れるものだが、同時に人の温かさも感じることができる。高橋留美子氏の秀逸なる漫画は、ドタバタの筋立ての中にそれを巧みに織りこみながら、愛は人と人との面倒な関係のプロセスの中からしか生まれないことを説いてゆく。
引きこもる若者の多くがITに浸っている。技術を駆使して収入を得ている人もいるが、他者との関係が希薄になりやすい。他者に干渉されず、思いのままに振る舞えるネットに浸るうち限りなく心は肥大化する。まるで王のように。核家族、少子化で競争相手のない家の中で、自分の部屋という城でネットに浸り、親を奴隷のように使い、傍若無人に振る舞う「小さな王たち」についての相談が、後を絶たない。
遠山 高史
精神臨床医
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