源頼朝と北条政子との世紀のカップル
③「女たらし」の代償
平氏の仇敵であったことから、伊豆周辺のボス連中のなかには、頼朝とは深くかかわりたくないという者も少なからずいました。
そんななか、乳母(母親代わりに養育する女性)のひとりとして頼朝の面倒を見たのが比企尼です。
比企一族は武蔵国のボスでした。比企尼は夫とともに京から領国に戻り、頼朝が挙兵するまで金銭面で支援し続けたのです。不遇の頼朝を支えた最大の功労者といってよいでしょう。この比企尼の甥で養子にあたるのが、のちに「13人」の一員となる比企能員です。
また、比企尼の娘婿の安達盛長も、「13人」のメンバーに選ばれます。盛長は、この伊豆配流時代から生涯にわたり、頼朝に仕えました。さらには、盛長の兄の子とされる足立遠元も、「13人」の一員です。安達盛長の出自はよくわかっていませんが、足立遠元は武蔵国足立郡の武将でした。東京都足立区は足立郡に由来します。
京都で過ごした少年期の縁も活かされました。朝廷に仕える中級貴族の三善康信(善信)が、都の情勢を頼朝に知らせてくれたのです。しかも、10日ごとに。頼朝の乳母(比企尼とは別人)の妹が母だったこともあり、もとより源氏とは結びつきが強かったのです。この三善康信も、「13人」の一員として「鎌倉殿」を支えることになります。
このように、「鎌倉殿と13人」の人脈のベースは、伊豆配流時代に整えられたものが多いのです。
しかし、頼朝はそんななかで窮地に陥ります。手をつけてはならない女性に手を出してしまったからです。
こともあろうか、頼朝の監視役を務める伊東祐親の娘と密かに結び、千鶴という名の男児をもうけたのです。祐親が大番役として、京に詰めていたときのことでした。
都から戻った祐親は大激怒し、ふたりの仲を裂きました。さらに、3歳の幼い千鶴を川に沈めて殺したのです。祐親は平清盛からの信頼が厚く、それゆえ娘が頼朝の子、しかも源氏の跡取りになりかねない男子を産んだことが清盛の耳に入ればどうなるか、火を見るより明らかだと恐れたからでした。
祐親の怒りは収まらず、頼朝にも夜討ちの刃を向けようとしました。しかし、比企尼との縁が窮地の頼朝を救うことになります。祐親の子・祐清が頼朝の居場所に向かい、北条時政のもとへ逃げるよう、ひそかに導いたのです。心優しい祐清は比企尼の娘婿で、かねてから父・祐親の非道な行いに批判的でした。
受け入れる側の時政の心中は、どうだったのでしょう?
<やっかい者を抱え込んでしまった……>
<落ちぶれたとはいえ、源氏の貴種。ここで恩を売っておけば……>
14歳になっていた小四郎こと北条義時も、同じ思いだったのでしょうか。その胸のうちに入るのは困難ですが、北条一家が住居まで用意して、「佐殿」頼朝を受け入れたことは確かです。
こうして頼朝は、北条時政の庇護の下、伊豆の蛭ヶ小島で第二次配流生活を送ることになりました。
さすがの頼朝も反省しきりのはず……。
④世紀のカップル誕生!
ところが性懲りもなく、頼朝はまたもや手をつけてはならない女性と関係をもってしまったのです。今度も女性の父こと時政が大番役、すなわち宮廷のガードマンとして京に詰めていたときのことでした。
第1回で紹介した北条政子との交誼 、そして世紀のカップルの誕生です。ふたりの仲をとりもったのは、「13人」のひとり安達盛長と伝えられます。
このとき、頼朝は30歳、政子は21歳。当時としては、ともにかなりの晩婚でした。
時政は当初、ふたりの結婚に大反対でした。しかし、政子の一本気な性格、激しい気性をだれよりもよく知る時政はしぶしぶ結婚を認めたのでした。あるいは、こう思っていたかもしれません。
<都では平氏への不満が高まっているようだ。源氏についたほうが、北条家には有利かもしれんぞ……>
いずれにせよ、平氏に背を向け、流人の頼朝に北条家の未来を託すことになったのです。
さて、このころ都では、平清盛と後白河法皇のあいだに確執が生じていました。