平氏への不満は爆発寸前の状態だった
⑤おごれる平氏も久しからず
平氏は清盛とその子重盛をはじめ、一門で朝廷の要職を独占していました。
さらに清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の后にし、ふたりのあいだに産まれた子を天皇にしようと企らんでいました。藤原道長と同じく、外戚の座を狙っていたのです。<な〜んだ、清盛は摂関家に憧れていたんだ!>と思われても仕方ないですね。
1177年、京都東山の鹿ヶ谷に院の近臣の貴族たちと僧俊寛が集まりました。平氏打倒に向けた密議を行ったのです。しかし、すぐに発覚。密議参加者を処罰して、さらに反平氏派の貴族の官職も解いてしまいました。これを鹿ヶ谷事件(鹿ヶ谷の陰謀)といいます。
それから2年後、清盛は後白河法皇を幽閉してしまいます。また、清盛は院政を停止するだけでなく、貴族が所有していた多くの荘園も手にし、全国の知行国の半分以上をわがものにしました。平氏一門が諸国の国司の職も独占したのです。まさに、平氏にあらずんば人にあらずの状態。
さらに翌1180年、清盛はわずか3歳の孫を安徳天皇として即位させ、清盛は狙い通り外戚の座を得ました。こうして平氏独裁体制を完成させたのです。
しかし、平氏への不満のガスは充満、爆発寸前の状態にありました。
これに火を点けたのは、後白河法皇の子以仁王の挙兵と平氏討伐の令旨です。安徳天皇の即位の2か月後、以仁王は源頼政とともに平氏追討の兵を挙げたのでした。以仁王は平氏のために帝位にめぐまれず不満をもっていました。また、頼政は源氏ながら清盛に取り立てられて高位にありましたが、平氏の横暴と源氏の衰亡を見るに見かねて立ち上がったのです。
しかし、以仁王も頼政も武運つたなく敗死。
着火はあえなく失敗……と思いきや、そうではありませんでした。ふたりの火の粉が各地に延焼していったのです。以仁王が出した平氏討伐の令旨が諸国の源氏に伝えられると、平氏打倒の火の手がいっせいに上がったのでした!
令旨は、伊豆の頼朝・政子夫妻の元にも届きました。
治承4(1180)年から、寿永4(1185年)まで続く争乱は、年号を冠して治承・寿永の乱と呼ばれます。一般には、源平合戦(源平の争乱)として知られています。
大迫 秀樹
編集 執筆業