イラストレーション=メイ ボランチ

平氏全盛の時代に源頼朝は14歳から34歳まで、実に20年あまり伊豆での幽閉生活を余儀なくされます。頼朝は三男ながら正式な跡取り候補として特別扱いされていました。なぜでしょうか。大迫秀樹氏が著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)で解説します。

平氏への不満は爆発寸前の状態だった

⑤おごれる平氏も久しからず

 

平氏は清盛とその子重盛をはじめ、一門で朝廷の要職を独占していました。

 

さらに清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の后にし、ふたりのあいだに産まれた子を天皇にしようと企らんでいました。藤原道長と同じく、外戚の座を狙っていたのです。<な〜んだ、清盛は摂関家に憧れていたんだ!>と思われても仕方ないですね。

 

1177年、京都東山の鹿ヶ谷に院の近臣の貴族たちと僧俊寛が集まりました。平氏打倒に向けた密議を行ったのです。しかし、すぐに発覚。密議参加者を処罰して、さらに反平氏派の貴族の官職も解いてしまいました。これを鹿ヶ谷事件(鹿ヶ谷の陰謀)といいます。

 

それから2年後、清盛は後白河法皇を幽閉してしまいます。また、清盛は院政を停止するだけでなく、貴族が所有していた多くの荘園も手にし、全国の知行国の半分以上をわがものにしました。平氏一門が諸国の国司の職も独占したのです。まさに、平氏にあらずんば人にあらずの状態。

 

さらに翌1180年、清盛はわずか3歳の孫を安徳天皇として即位させ、清盛は狙い通り外戚の座を得ました。こうして平氏独裁体制を完成させたのです。

 

しかし、平氏への不満のガスは充満、爆発寸前の状態にありました。

 

これに火を点けたのは、後白河法皇の子以仁王の挙兵と平氏討伐の令旨です。安徳天皇の即位の2か月後、以仁王は源頼政とともに平氏追討の兵を挙げたのでした。以仁王は平氏のために帝位にめぐまれず不満をもっていました。また、頼政は源氏ながら清盛に取り立てられて高位にありましたが、平氏の横暴と源氏の衰亡を見るに見かねて立ち上がったのです。

 

しかし、以仁王も頼政も武運つたなく敗死。

 

着火はあえなく失敗……と思いきや、そうではありませんでした。ふたりの火の粉が各地に延焼していったのです。以仁王が出した平氏討伐の令旨が諸国の源氏に伝えられると、平氏打倒の火の手がいっせいに上がったのでした!

 

令旨は、伊豆の頼朝・政子夫妻の元にも届きました。

 

治承4(1180)年から、寿永4(1185年)まで続く争乱は、年号を冠して治承・寿永の乱と呼ばれます。一般には、源平合戦(源平の争乱)として知られています。

 

大迫 秀樹
編集 執筆業

 

 

 

※本連載は大迫秀樹氏の著書『「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人』(日本能率協会マネジメントセンター)から一部を抜粋し、再編集したものです。

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

「鎌倉殿」登場! 源頼朝と北条義時たち13人

大迫 秀樹

日本能率協会マネジメントセンター

学校の授業で歴史を習うときに必ず出てくる「鎌倉幕府」。日本で初めて本格的な武士による政治のはじまりとして覚えさせられた人が多いことでしょう。そこで、習った人には思い出していただきたいのが、鎌倉幕府の成立は何年と…

人気記事ランキング

  • デイリー
  • 週間
  • 月間

メルマガ会員登録者の
ご案内

メルマガ会員限定記事をお読みいただける他、新着記事の一覧をメールで配信。カメハメハ倶楽部主催の各種セミナー案内等、知的武装をし、行動するための情報を厳選してお届けします。

メルマガ登録